黒揚羽
Target --049
ゴッと言う一際鈍い音が、早朝の公園に響き渡る。
しかし、その音を聞いた者は、紅以外には一人しか居なかった。
すでに、公園内で立っている人の数もまた、それと同じだ。
「お疲れ様です」
トンファーを染める赤を振り払いつつこちらに歩いてくる雲雀に、紅はそう声をかけた。
無視することも出来るのだが、した所で状況が変わるわけでもない。
寧ろ、あの鉛色に光るトンファーを向けられかねないのだから、悪化するかもしれないのだ。
そんな風な事を考えていた紅は、すぐ前に彼が来ていたことに気付かなかった。
ザッと地を踏みしめる音が耳に届いて、漸く彼女の思考は戻ってくる。
「怪我は…ありませんね」
傍から見れば酷く滑稽な風景かもしれない。
明らかに年上であろう女性が、学ランを肩に羽織る中学生に敬語を使う。
そんな不思議な光景を作り出していることを理解すれば、自然と苦笑が零れた。
忘れてしまっていたけれど、彼とはこんなにも年齢が違うのだ。
高々10程度の差ではあるけれど、それは確かな差となって自分と彼の間に横たわっている。
「すると思うの?」
「いいえ、思いませんよ。彼ら程度に手を焼くとも思っていませんから」
そう答えれば、興味のなさそうな視線が自身へと向けられる。
それから、一声もなく突然に何かが飛んできて、半ば反射的にそれを手で受け止めた。
渡されたそれは、黒い携帯電話。
「あの…?」
「何人か寄越すように連絡して」
「あ、はい」
「あぁ、それから…引っ手繰った金の在り処を聞き出すように伝えといてよ」
どうやら、彼らの集めたお金は風紀委員の臨時収入になるようだ。
被害にあった人が居る手前、素直に喜べないのだが…彼が言うのだから、それに逆らうつもりはない。
引っ手繰り犯を捕まえた捕獲料と思っておくのが一番だろう。
紅は彼に手渡された携帯を開き、すでに覚えてある番号を押してそこに電話をかける。
程なくして電話口の向こうに出た声は酷く緊張していて、恐らくは雲雀からだと思ったのだろうと苦笑する。
一声発すれば、それが紅の物だと気付いたのかその緊張は解けた。
彼の携帯から彼女が電話してきた、と言う事に対しての疑問は無いらしい。
「じゃあ、よろしく」
そう言って電話を終了する。
紅が電話している間、雲雀は立ち去るでもなく彼女が座っていたベンチに腰を下ろしていた。
折りたたみ式のそれをパタンと閉じると、彼女はそれを雲雀に差し出す。
彼は無言でそれを受け取ってポケットにしまいこんだ。
それから、沈黙が二人の間に下りる。
「…老けたね」
「老け…!?」
確かに老けると言う言葉には「年を取る」と言う意味があるのだから、間違いではない。
けれど、嫌だ。
まず、「老」と言う漢字が使われている時点で、嫌だ。
思わず口元を引きつらせた彼女に、雲雀は楽しげにそれを持ち上げた。
「冗談だよ。君は面白いね。その身体と言い、さっきと言い…」
「さっき?」
「男を吹っ飛ばしただろ?」
その言葉に、一体彼はいつから見ていたのだろうと思う。
バイクの音がしたのは、男が吹っ飛んだ後の筈。
その原因が紅にあることを知っていると言う事は、それよりも前から見ていたと言う事になる。
「見ていたなら手を出す前に来てくれればよかったのに…」
「素人じゃないよね。それも師匠って奴に教わったの?」
話がかみ合っていないと感じているのは、恐らく紅だけだろう。
雲雀の方は元々話を相手に合わせるつもりがないのだから、例え合っていなくても気の向くままに語ればいいのだ。
やれやれ、と息を吐き出しつつ、違いますよと答える。
「師匠とは別の人です」
「ふぅん…鞭を使うだけかと思ってたけど、肉弾戦も出来るんだね」
「…久しぶりですよ」
随分と、長い間己の身一つを使う戦い方などしていなかった。
その理由を思い出して、紅は表情に影を落とす。
それに気付いたのか、雲雀が少しの間口を噤んだ。
だが、すぐに話を再開させる。
「所で…どっちが本当の君?」
「………こっちですよ」
「へぇ…なら、年上だったんだね」
女だったんだね、と言うのと同じような口調であっさりとそう言ってのける。
彼には、年上も年下も関係ないのだろう。
「本当に、面白い身体だね。学校はどうするつもり?」
「ご安心を。明日には雲雀さんがよく知る身体に戻っていますから」
紅からすれば戻るではなく縮むなのだが、今はどちらでも良い。
別に彼が心配していたわけではないのだから、安心と言う言葉は少しばかりおかしいのかもしれない。
けれども、その言葉が一番自然に口から零れていた。
「変な研究が趣味だって言ってたけど…それが原因なの?」
伸びてきた彼の手から逃げる事はなかった。
その指先が頬に掛かっていた紅の髪を拾い上げていく。
長くもなく、かといってショートほど短くもないセミロング。
癖のないその髪は、彼の指先から逃げるようにして滑り落ちた。
「研究…ええ、そうですね。原因と言えば原因です」
元に戻る術は得た。
もう、態々不便な子供の姿に変わる必要はどこにもない。
しかし、紅はそうなる事に対する抵抗がなかった。
寧ろ当然のことのようにそれを受け入れている。
その理由は、いたって簡単だった。
「本当に、君は秘密が多いね。これで最後って訳じゃないでしょ?」
「よく分かっていますね。まだ最大の秘密が残っています」
「それを君の口から聞く日が来るのかな?」
そう問いかけた彼に、紅は「どうでしょうね」と、やや挑戦的な笑みを返した。
そうしてごく自然に成り立っている会話に慣れた頃、紅は自身の状況に気付く。
心身共に20歳を越える女性が、学ラン姿の中学生に親しげに、しかも敬語で話しかける光景。
傍から見ればさぞかし首を傾げたくなる光景だろう。
親しげに話しているだけならば姉弟と見る事は出来る。
しかし、その年上である姉の方が敬語とあれば、それが癖であると言う認識には、まず至らない。
早朝であり、更にこの場所が公園の中と言っても、少し入らなければ見えない位置であったことが幸いした。
「さて…そろそろ学校も始まりますね」
別に何を話していたわけではない。
主に紅が話して、雲雀がそれを聞いて…時折「そう言えば」程度に話題を持ち出す。
彼女でなければ、彼を相手にしてこんな穏やかな時間は過ごせないだろう。
そう思えるくらいにのんびりとした時間だった。
そろそろお開きにしましょうか、と言う意味を含めた言葉と共に、紅はうん、と伸びをした。
真上に伸ばした腕を重力に従わせた拍子に、彼女の襟元から黒い揚羽が覗く。
別に見るともなしに彼女を視界に入れていた雲雀の目は、それを見逃さなかった。
「それ…」
「え?あぁ…黒揚羽ですよ」
綺麗でしょう?と、もう一つボタンを外す。
本来ならば異性の前ですべき行動ではないのだが、下にキャミソールを着ているという事実が紅を動かした。
「…銃創だね」
じっとそれを見ていたかと思えば、彼はポツリとそう呟く。
もちろん、その言葉に驚いたのは紅だ。
この鮮やかに彩られた肌の下に残る痕を、ピンポイントで言い当てた。
普通は上に飾られている揚羽蝶に目を奪われ、そこまでは気付かないだろう。
更に言うならば、一般的な生活をしていれば銃創に出会うことなど、この日本ではまずありえない。
「よく…分かりましたね」
「痕を見ればその程度は分かるよ」
当然のことのように答える彼に、何故かなるほどと頷いてしまう。
納得できてしまうのは、彼が彼故…なのだろう。
「…悪くないと思うよ。君は蝶みたいな人間だしね」
それはどう言う意味を含んでいるのか。
問い返す前に彼は腰を上げてしまって、いつの間にかその手にはバイクのキーが握られていた。
「仕事は山ほど残してあるから、明日は遅刻しないでよね」
「あ、はい」
条件反射で答える紅に、満足げな笑みを残すと、彼はそのまま背中を向けて歩いていってしまった。
それを見送った彼女は、一人になってからポツリと零す。
「………蝶みたいって…?」
どの辺りがそれを思わせるのかは分からないが、ただ褒め言葉だったと言う事実が紅の顔に熱を集める。
赤くなる顔をどうにかする事は出来ず、落ち着かせるようにと顔を手で覆って、無駄な足掻きをした。
07.05.24