黒揚羽
Target --048
気がつけば、日付が変わっていた。
着いたら起こしてと頼んだ筈だが、どうやら起こさずにベッドまで運んでくれたらしい。
それにも気付かないほどに熟睡していたのだろうかと思うと、疲れは溜まっていたのだと実感する。
不意に、今の時間が気になって時計の存在を探した。
自分の部屋の筈なのに、数ヶ月離れていた所為でそれの位置を正確につかむことができない。
仕方なく標的を時計から携帯へと変更する。
だが、そこでベッドに入ったのが自分の足によるものではないことを思い出した。
つまり、自分の荷物がどこに置いてあるのかがわからないのだ。
その考えに行き着いた所で、紅はふぅと息を吐き出した。
そしてベッドの脇にあるカーテンを開けば、東の空が僅かに白みつつあるのがわかる。
どうやら、夜明けが近いらしい。
中学生の身体の時には大きすぎるベッドも、本来の身体であればある程度は余っているけれども丁度良い。
窓に向かって手を伸ばせば、その違いは歴然だった。
いつもよりも肘が曲がった状態でひんやりとした窓ガラスに行き当たる。
僅かに指の腹が形を変えたところでそれを引けば、冷えた窓にかすかな指跡が残った。
―――出かけたい。
唐突に、そんな事を思う。
思い立ったが吉日、とばかりに紅は自身にかかっていた布団を退け、フローリングに足をつける。
それから、Yシャツに黒のスラックスと言う簡素な出で立ちに着替えるなり、すぐに部屋を後にした。
廊下に出てふと右へと視線を動かせば、閉ざされた扉が目に入る。
そこは暁斗の自室となっていて、彼が部屋の中に居ない時には、ドアはいつでも開かれっぱなしになっている。
つまり、閉じられているという事は、彼が中に居るということなのだろう。
小さな物音でも起きてしまう彼を配慮し、足音を潜ませて廊下を歩いていく。
リビングに入ってそのドアを閉じた所で、一仕事終えた後のように一度、息の塊を吐き出した。
「あ…携帯…」
その時になって、はた、と気付く。
出かける時には必ずと言っていいほどに持ち歩いているそれが無いと言うのは、どことなく不安だ。
かといって、また足音を消しつつ部屋に戻るのは面倒。
暫く悩んだ末、紅は戻る事無く玄関へと歩き出した。
二つ目までボタンを外しているために、胸元は広く開いている。
そこに冷たい風が触れていく所為か、体感温度は低い。
けれども、もう春だということが分かるのは、道の両脇に植えられている木々が新緑を纏っているからだろう。
この季節は空気までもがどこか新鮮に感じられて、紅は深呼吸を繰り返しながら歩いていく。
目的地はない。
ただ、のんびりと歩きたかった。
気の向くまま風の向くままに進んでいるうちに、夜は完全に明けきったらしい。
まだ眩しくはない太陽が彼女の白い胸元に落ち、鎖骨の上に見えた黒揚羽を明るく照らす。
目線がいつもより高い所為だろうか。
見える風景一つ一つがとても新鮮だった。
次第に町が起きてくるのが、その空気で分かってくるのが何とも面白い。
シンと静まっていた歩道の脇を行く車も、徐々に増えてきた。
平日の朝、皆が仕事や学校と言う自分が居るべき世界へと向かっていく。
そんな中を、目的もなく歩く自分。
それはどこか違う世界に迷い込んだような錯覚をも引き起こした。
クスリ、と笑いを零す。
まるで、自分だけが世界に置き去りにされているような…そんな、滑稽な気分になった。
それが寂しいとは思わないけれど。
どれくらい歩いたのだろうか。
ちらほらと歩道を歩く人の姿も見えるようになった頃、紅は前方に公園を見つけた。
名前を見ても覚えはなく、周囲に視線を向けて初めて、自分が知らない土地に来ている事に気付く。
紅は迷う素振りも見せず、のんびりとした足取りを崩さないままに公園内へと足を踏み入れた。
そして、それからものの3分後。
彼女は、自分の無意識の行動を呪う事となる。
「朝っぱらから随分と元気なことで…」
思わずそう呟いた。
やや草臥れた学生服のブレザーに、頬やら腕やらに残る傷。
どうやら、長時間続いている乱闘の中に飛び込んでしまったらしかった。
制服が二種類しかない事を考えると、学校の不良同士の諍いのようだ。
何も、公共の場である公園で血みどろの殴り合いなどしなくても…と思う。
どうせなら、もっと誰にも迷惑にならないような、廃ビルなんかでやって欲しいものだ。
そんなものがあるのかどうかは知らないけれど。
「見てみぬ振りしたい所なんだけどな…」
公園の中とは言え、こんな朝早くだ。
子供が害を被るという事もあるまい。
そうならば、別段自分が止めにはいる必要はどこにもなく、好きなだけ争って適当に切り上げてくれればいい。
だが、そう簡単には問屋が卸さなかった。
「何見てんだよ、あぁ!?」
「(最悪…)」
取り巻きの一人が気付いてしまえば、後は芋の蔓を掘り返すが如く。
思わず頭を抱えたくなると同時に、動きにくいスカートを選ばなかった自分を褒めてやりたくなった。
徐々に自分の方へと近づいてきているのは、殺気立って居るけれどある意味では放置されている面々。
すでに体力もかなり削られているらしく、争っているのはグループの頭同士だけのようだ。
「面倒ね、本当に…」
自分達よりも年上とは言え、相手は細身の女性。
負けるはずはないと言う過信と、捨て置かれている苛立ちと。
その両方が見事に作用し、結果として興奮状態を作り出しているらしかった。
そう冷静に分析しながら、どうしようかなと思う。
ここで相手をする分には、問題はない。
問題があるとすれば…恐らくは、すでに連絡を受けているであろう風紀委員がいつ到着するか、だ。
ここは、記憶が正しければ風紀委員が取り締まっている区域内。
夜中から騒いでいるならば、そろそろメンバーが到着してもおかしくはない。
現状を考えれば、彼らと顔を合わせるのは非常にまずいのだ。
何しろ、今の紅の身体は本来の年齢相応のそれ。
いくら成長した姿であるとは言え、別人であるという認識を与えるのは難しい。
そうなれば、何故、と言う説明をしなければならなくなる。
面倒―――現状は、その一言に尽きた。
「おねーさん。こんな時間に公園なんか来るもんじゃないですよー」
まるで幼子に言い聞かせるような声で一人がそう言った。
それから、声とは裏腹に強い力で紅の腕を取る。
そんな彼に向けて、彼女は見惚れるような美しい笑顔を浮かべた。
「ごめんなさいね。知らない人に触られるのは嫌いなの」
笑顔で一息にそう告げる彼女の言葉を最後まで聞かずに、男の身体が宙を舞う。
さながら、風に踊らされた木の葉のように。
ひゅーんと飛んでいってしまった男を見送った仲間だが、我に返ると振り向いて紅に怒りを露にする。
「このア…ぶっ!!」
言い終わる前に、先ほどの男と同じように吹き飛ばされる。
吹き飛ばした張本人である紅は、男を殴り飛ばした右手をひらひらと揺らした。
「向かってくるなら覚悟してからいらっしゃいね。…これでも、肉弾戦は得意なの」
ニッと口角を持ち上げたその笑みに、先ほどの可憐な笑顔はない。
それでも、見る者の目を奪って、その視線を離してくれない様な…そんな、不思議な力を持った笑み。
男達が生唾を飲んで怯んだ所で、場にそぐわぬバイク音が聞こえてきた。
一同の意識がそちらへと移動するのに対し、紅は思わず溜め息を吐き出してしまう。
そのバイク音には、嫌と言うほど覚えがあった。
「この辺で引っ手繰りの量で競ってる奴が居るって聞いたけど…君達?」
バイクの音が消え、代わりに酷く聞き覚えのある声が聞こえた。
そんな馬鹿なことをしていたのか、と呆れた様子で今の今まで争っていた彼らを見やる。
それから、先ほどの声の主へと視線を動かした。
早朝だというのにしっかりと制服を着込み、肩にかけた学ランを風に揺らす人物。
言わずもがな、この並盛の秩序である風紀委員のトップ―――雲雀恭弥であった。
彼は両校のメンバーを一瞥してから、最後に紅の存在に気付く。
その時に軽く見開かれた目は、何を示していたのだろうか。
彼に限って、一般人が巻き込まれていたことに対するものとは考えにくい。
となれば、残ってくる仮説は一つだ。
「…やっぱり気付かれたか…」
気づかれない筈はないけれど…そう思いながら、髪を掻き揚げる。
すでに臨戦態勢など当の昔に解いていて、傍観者に成り下がった彼女。
説明しなければならない事は面倒だ、面倒だけれど…。
「ま、いっか」
そう思えるのは、相手が彼だからだろうか。
トンファーを両手に楽しげに一人ずつ伸していく彼を見ながら、紅は近くにあったベンチに腰を下ろした。
心配する必要もなければ焦る必要もなく、況してや逃げることなど浮かびもしない。
紅がすべき事は、ただ、彼の手が空くのを待つのみだ。
ものの数分で片がつくその時まで、紅は数ヶ月ぶりの彼の一方的な攻撃の様子を眺めていた。
07.05.18