黒揚羽
Target --046
まるで城のように大きな建物。
間近で見上げれば首が痛くなる大きさだというのに、これで本部ではないのだから驚きだ。
一度それを見上げた紅は、やがて視線を落として溜め息を吐き出す。
ここで立ち止まっていても事態は好転しない。
「行くか」
この世界で生きていくならば、彼らに背くわけには行かないのだ。
無人にも思えるような玄関を抜ければ、シンとした沈黙が耳を打つ。
カツン、と彼女のブーツと石の床がぶつかる音だけがそこに響いた。
馬鹿でかいホールのような空間を抜け、一番近い廊下に足を踏み入れる。
そうして、十数人は余裕ですれ違うことが出来るであろうそこを進んだ。
見えてきたのは一枚のドア。
しかし、彼女はそこに向かう事無く、今彼女のすぐ脇にある彫刻に向き直る。
胸から上だけの彫刻は、恐らく大理石で出来ているのだろう。
はっきりと確かめた事はないから事実かどうかは知らないが。
そんな風に関係のない事を考えながら、彼女はブーツでその彫刻の台となっている足元を蹴る。
ガコン、と何かが動く音がした。
同時に、美術的にもかなり価値が高いと思われる彫刻が真っ二つに割れ、その向こうの壁が口を開く。
「いつも思うけど…無駄に手の混んだ造りよね…」
ガコガコと壁やら床やらが動き、やがてそこに人が3人並んでも通れるほどの通路が出来上がる。
すぐに階段が始まっていて危険極まりないが、天井から吊るされた明かりが足元を照らしているので問題はない。
だが、電力を節減しているのか、彼女が移動する速度にあわせて天井の明かりの位置が移動していく。
手前の明かりを離れれば、その次の明かりが灯る―――要はそんな感じだ。
そのつなぎ目が暗くなる、と言う事はないのだから、文句をいう必要はないだろう。
もしかすると、この場の雰囲気を損なわないためのシステムなのかもしれないが。
『認証コードを』
ピピッと電子音が響いたかと思えば、紅の耳にそんな機械的な声が届く。
その間も彼女が歩みを止める事はない。
「コード57308529-7332151-89いっ!…噛んだ…」
『認証コードを』
「分かってるわよ。噛んだだけでしょ!コード57308529-7332151-891756292!」
無情に繰り返される機械的な音声に思わず文句を言ってから、半ば投げやりにコードを言い放つ。
いつも思うことなのだが、この数字の羅列は長すぎると思う。
確かに各ファミリーの研究員全員にコードが用意されているのだから、多少の長さは頷けるのだが…。
だからと言って、24桁は多すぎだろう。
これを覚えられないが故に研究局に入ることの出来ない人間も多いのでは、と思っている。
『確認しました。キャッバローネファミリー技術開発研究局、黒アゲハの紅。入所を許可します』
その声が聞こえた所で、階段は漸く終わりを迎える。
と言っても目の前に見えたのは目的の部屋ではなく、一見レンガに見える壁だ。
『引き続き、利用研究所を』
「地下第一研究所」
『―――声紋を確認します。解除コードを』
「コード、2576BBKY」
『―――確認しました。ロックを解除し、第一研究所へ接続します』
この間、壁の向こうで何が起こっているのかは知らない。
何かが動く音が聞こえていて、やがてそれが治まった頃に壁が両側に割れる。
そうして進んだ先は己が目的とする場所に繋がっているのだ。
どういう仕組みになっているのかは知らないが―――この場所から、どの研究所にも入ることが出来る。
それだけは確かだった。
「漸く研究所…」
インドア派の研究員たちは、毎回この面倒な手順で研究所に入っているのだろうか。
研究員の中には所内に用意されている仮眠室で身体を休めてしまう人も多いと聞くが―――当然かもしれない。
一々こんなことをさせられるのは面倒で仕方がない。
一度入ったら一ヶ月は出てこないと言うのが専らの噂で、その真実は謎のまま。
しかし、日に焼けた形跡のない彼らを見ていれば、自ずと答えは出てくるものだ。
その内にコケでも生えてくるのでは―――密かに、偶には光合成をすべきだろうと案じているのは秘密。
「…お待ちしておりました」
シュン、と自動で開くそこを抜けると、分厚いバインダーを手に持った男性がそう頭を下げた。
白衣に身を包み、黒縁の眼鏡。
いかにも研究員らしい格好の彼は、すぐに手に持っていたそれを置いて彼女の元まで歩いてくる。
「今回の研究についての説明をお聞きいただきます」
「それは別に構わないけれど…随分と、仰々しいのね」
いつもならば人も疎らな第一研究所。
所が、今日は視界の中を行き交う人の数が多い。
「ボンゴレの明日を左右する研究です」
「…ふぅん」
それにしては、いつもとは違った器材が導入されている。
そう思ったけれど、深く追求しようとは思わなかった。
それを後から後悔する事になるなんて―――この時は、知る由もない。
「研究にあたるにおいて、これから言う事は厳守していただきます」
「…拒否権は?」
「所内に一歩足を踏み入れた時点で、拒否は出来ません」
「………詐欺だ」
ぽそりと呟いた言葉は彼には届かなかったらしい。
ボンゴレの研究所には何度か足を運んでいるために、紅の研究道具も一式そろえてある。
それを取りに戻り、私服の上から白衣を羽織り、一室へと案内されて今に至ると言う訳だ。
入ってすぐに応対した彼が、机を挟んだ彼女の向かいで説明を続けている。
「まず、この研究が完成するまでは研究所を出ることは出来ません。質問も、研究に関すること以外は禁止します」
「…理不尽な申し出ね。嫌だと…そう言ったら?」
「重ねますが、あなたに拒否権はありません。これは命令と心得てください」
即座に返って来た答えに紅が眉を寄せる。
命令、そう言われれば、こちらは口を噤まざるを得ない。
その内容の理不尽さには納得できないが…説明が終わるまでは黙っていよう。
心の中でそう決めると、彼女は足を組みなおした。
一通りの説明が終わった所で、紅は研究に入る前にと彼に向かって口を開く。
「研究に参加する前に、9代目に会わせて欲しいの」
「完成が優先です」
「何も一日も二日も話そうって言うんじゃないんだから、半時間くらい構わないでしょう?」
「無理です。9代目は現在イタリアを離れておられます」
嘘だ、そう思ったけれど、これ以上何を言ったとしても違う答えが返って来る事はないだろう。
今回の研究の意味を彼本人に問いたかったのだが…どうやら、それは不可能らしい。
「これ以上の問答は命令違反と見做します。…キャバッローネはボンゴレを敵に回すおつもりで?」
その言葉に紅はその表情を険しくして彼を睨みつけた。
己の行動にボンゴレとの関係が掛かっている―――その意味を持つ言葉だ。
これは本当に9代目からの命令なのか、それすらも疑問であったけれど、口には出さない。
「これが最後の質問よ」
「…何でしょう?」
「何故、イタリアに着いた私の元に『彼』が来たの?彼は研究局の人間ではない筈だけれど…」
「……………」
返って来たのは沈黙。
答えるかどうかを悩んでいる様子はなく、初めから答えないと決めているような様子だ。
紅は静かに溜め息を吐くと、やや乱暴に椅子から立ち上がる。
「研究に関わる全ての資料を3分以内に揃えて」
彼女の言葉に、男は頭を下げてから部屋を出て行く。
その事務的な行動を見送ると、目を閉ざして椅子へと座り込み、再び長く溜め息をついた。
「…9代目…」
再び開かれた彼女の目には、その身を案じる不安な色が浮かんでいた。
何が起こっているのかを判断できるほどに、自分はボンゴレに詳しくはない。
同盟ファミリーとは言え、多少研究で関わりあう程度だったのだから当然だ。
しかし、自分の知らない所で…分からない所で、何かが起こり始めている。
「さっさと片付けて帰らないと…」
間もなく用意されるであろう資料には、一体何が書かれているのだろうか。
果たして自分がどこまで通用するのかは分からないけれど…頼られている以上、結果を出さなければならない。
「…頭の痛い問題ね」
呟いた声は誰も居ない室内に静かに響き渡る。
以後、桜の季節が終わる頃まで紅がこの研究所を出る事はなかった。
07.04.22