黒揚羽
Target  --042

着々と準備を進める日が続く。
尤も、向こうの生活はキャバッローネの屋敷を使えばいいのだから、特に用意するものはない。
ただ、どのくらい日本を離れる事になるかわからないので、その段取りが必要だった。
気に入っている服やら新薬の開発途中のメモ書きなど、忘れてはならないものも数点ある。
それらをキャリーケースの中に丁寧に入れていきながら、紅はふぅと溜め息を吐き出した。


すでに学校には留学と言う事で話が付いている。
現存する向こうの学校名も挙げている事から、疑う理由はなかったようだ。
風紀委員の仕事はどうするんだ!?と必死の形相で尋ねられたが、それもすでに解決済みとなっている。
「戻るまでの間の引継ぎはしておきます」そう答えた時の、安堵に満ちた教師の顔が忘れられない。
自分の価値観はそこにあるのか…とも思ったが、風紀委員が自分の居場所であった事もまた事実。
世間でははみ出し者の彼らも、中に入ってみれば個性的という言葉で言い表せる人間ばかりだった。
彼らの上を行くマフィアと言う環境の中で生きている彼女だからこそ、なのだろう。

「こんな事を考えていると、もう二度と帰ってこないみたいね」

そう言って紅は苦笑を浮かべる。
こうして旅行ではない旅支度をしていると、どうにも思い出に耽ってしまって駄目だ。
今しがた手に取ったキャミソールを一番上にパサリと放り投げると、ぐっと天井に向けて腕を伸ばす。
家の中に居る時には常にかけているピアノ曲が、穏やかに耳に流れ込んできた。

フローリングの床に座り込んだまま、紅は近くにおいてあった手紙を手に取る。
何の変哲もない白い便箋には、左上と右上に百合の模様が薄く描かれていた。
ラインの数ミリ上を走る慣れ親しんだ文字を見下ろし、静かに溜め息を吐き出す。

何故、こんなにも憂鬱に気分が沈むのだろうか。

いつもならば、ボンゴレからの手紙にここまで気を落とすことなどない。
理由は彼女自身もわからなかった。

「行ってみればわかる…か」

どう転ぶのかはわからないけれど、飛び込むしか道は無いのだ。
呟いた後、彼女はふと思い出したようにベッドの脇に置かれたスタンド型の時計に目を向けた。
そして、それが指す時刻に一瞬にして引きつった表情を浮かべる。

「や、約束の時間5分前!?」

荷造りは思った以上に時間を食いつぶしていたらしい。
今はまだ私服で、これから制服に着替えて身だしなみを整えて、窓やら何やらの施錠。
これから5分で為すべき事がものの2秒で脳内を駆け巡り、彼女は更に青褪めた。
無理だ、どう考えても間に合わない。
脳はそう判断するが、身体は諦めなかった。
半ば転げるようにしてクローゼットの中に掛けてあった制服をベッドの上に放り投げる。
着替え、身だしなみの整えまでに費やした時間は1分。
年頃の女性の準備時間としては、目を剥くような速さだ。
着替えながら窓の施錠を済ませていたので、後はキッチンの火の元を確認。
朝から使用していないそれのスイッチが入っていない事を確かめて、マンションの鍵を片手に鞄を椅子から引っ手繰った。




留学の準備があるだろうと、学校側から公欠扱いにしておくと連絡されたのが昨日。
紅自身もそれはありがたかったので、素直にわかりましたと頷いた。
しかし、考えてみれば引継ぎの準備が終わっていない。
来なくていいとは言われたが、引継ぎは自分にしか出来ないので行かないわけにはいかなかった。
そうして、午後からの登校を予定の中に入れていたその時、携帯がメールの着信を知らせてくれる。
誰からだろう、と思ってそれを開いてみれば、つい昨日まで入院していた雲雀からだった。
明日の午後1時に応接室。
そう書かれた簡略この上ない本文に、自然と笑みが零れる。
変なデコレーションがない辺り、何とも彼らしい。
すぐに了承の返事を返したのが、約束の前日の午後11時。






学校までは歩いて10分、全力で走れば5分足らず。
憎いもののように靴箱に靴を投げ入れ、代わりの上履きを手に廊下を走る。
幸い授業中だったのか生徒も教師もおらず、その姿を咎める者はなかった。

「遅れました!!」

バンッと勢い良く扉を開けば、その上に掲げられた応接室と言うプレートが震える。
だが、そんな事を気にしている余裕は、今の紅にはない。

「1分遅刻」

そんな無慈悲な声と共に前方から向かってくる飛行物体。
それは本来ならば飛行を目的とした物ではない。
顔面をそれに強打されるのは冗談じゃない、とばかりに、紅はすでに手に用意していた鞭を自分の前で振るった。
まるで意思を持つかのような鞭は、勢い良く飛んできた鉛色で長いそれを絡め取ることに成功する。
完全に動きの止まったトンファーに、紅はホッと肩の力を抜いた。

「それを止めた事だけは褒めておくよ」
「…どうも」

差し出された手にトンファーを返し、紅自身も鞭をしまう。
そうして、すでに机に向き合っている雲雀の元へと近づいた。

「書類…わかりましたか?」

机の上に乗っていたその内の一枚を持ち上げ、問いかける。
その質問に彼の手がピタリと止まり、しかしすぐに動き出してその行だけを書き終えてしまう。
それから、彼はゆっくりと顔を上げつつ、肯定の返事を返す。
そして、じっと紅に視線を向けたまま沈黙する彼に、彼女は首を傾げた。

「あの?」
「そう言えば、面白い事を聞いたよ」

唐突に、彼はそう切り出した。
その話を思わせる言葉は無かっただけに、紅は疑問符を重ねる。
だが、何か話があるということだけは確かで、口を閉ざしてその続きを待った。

「留学…するらしいね」

誰が、と言う言葉は無かった。
疑問でもない、確定的なそれ。
紅は彼の声に、思い出したように「あぁ」と頷いた。
そう言えば、今日は呼び出しついでに彼に話をしようと思ってきたんだった。
すっかり忘れていた、と言うか、突然のトンファーの来襲に忘れざるを得ない状況だったのだと心中で言い訳する。

「帰るんだ?」
「ええ。少し家の事情で、イタリアに帰国します」

夏休みにイタリアから来日した際に、内容を掻い摘んで話しておいた。
イタリアの方が祖国であると言う事、学校側には今までイタリアに留学していたことにしてあると言う事。
その程度の内容しか話せなかったけれど、彼はそれでも十分だったらしく、それ以上には何も聞かれていない。

「期間は?」
「…未定です」

今更だが、これでよく学校の納得が得られたなぁと思う。
留学と言えば普通は期限が切られるもので、それが未定であると言う事はまず有り得ない。
向こうに滞在中に、何らかの理由でその期間が延ばされる事はあるだろうけれど。

「家の事情、ね。アレの関連ってわけだ」

アレ、が指す言葉が理解できないはずがない。
紅は少し答えるのに躊躇い、それでも身体が勝手に頷いていた。
主の戸惑いを知らない身体め…、と少し恨めしく思った心中など露知らず、彼は「ふぅん」と楽しげに笑み浮かべる。

「ま、他の奴らを使えるようにしてから行ってよね。君が戻るまでの間は忙しくなりそうだから」
「そのつもりです」
「そう。なら、別に何も言わないよ」

そう言って彼は再び視線を手元に落とした。
カリカリと文字を連ねるその姿を眺めていた紅は、不意に先ほどの言葉を思い出す。

―――君が戻るまでの間は忙しくなりそうだから。

その言葉は、つまり。

「帰ってきても…いいんですか?」

零れ落ちたその言葉に、彼の手が止まる。
目だけがちらりとこちらを見たことすら気にせず、紅はただ状況整理に追われる頭を動かした。

「出て行きたいなら、勝手にすればいいよ」
「え、嫌です」
「…じゃあ、何も問題ない。頭の足りない連中の五倍は役に立つからね」

誰かに必要とされるならば、そこは自分の居場所となる。
居心地の良いこの場所は、紅にとっては何にも変え難く、手放したくはないものであった。
けれど、彼女はキャッバローネの一員として、今回の依頼を断る事は出来ない。
立場上の問題と言うのは、時に自分の心を殺さねばならないものだ。
彼からすれば、家の事情などどうでも良いだろう。
勝手な都合、と判断され、この場所がなくなると言う事も、覚悟した。

「ありがとうございます」

小さな呟きは、開け放たれた窓から舞い込んできた風に掻き消される。
聞こえなかったのか、聞こえているけれど何も反応しないつもりなのか。
雲雀は彼女から視線を外すと、再び室内にカリカリと音を響かせる。
そんな彼を見ながら、紅は小さく微笑んだ。

07.03.06