黒揚羽
Target  --040

ストレッチャーに乗せられたツナが運ばれていく。
一時は騒然となった室内も今では閑散としていて、もう一人の息遣いさえ聞こえてきそうだ。
予想以上に怪我の酷くなってしまったツナに、止めればよかったかな、と思う。
しかし、止められた自信もないのでそれを口に出す事はしない。

「雲雀さん…もう少し手加減しましょうよ」

数学のワークを見下ろしながら、紅はそう呟いた。
別に、彼からの返事がなくとも気にはしない。
どちらかと言えば返事があったほうが驚きだ。

「…してるよ」

会話、と呼べるのか微妙な間が空いてからのそれ。
紅は今しがた読み取った問題をそのままに、視線を彼へと向けた。
眠っているのだと思っていた彼は目を開き、更にはどこか楽しげな笑みをその口元に浮かべてこちらを見ていた。
しっかりと絡んだそれに照れるでもなく、彼女はその続きを待つ。
手加減…しているのか?あれで?と言う思いを視線に乗せて。

「手加減なら、してる。君限定で」
「…………………」

それはしているとは言わない。
あれのどこが手加減しているんだ。

言いたい事は山ほどある。
けれど、そのどれもが声となることを恐れて喉の奥へと逃げてしまった。
結局言いたい事はどれ一つとして唇を飛び出す事はなく、代わりに溜め息だけが一つ零れ落ちる。
どうして、彼はこれほどまでに自分の心を揺さぶる事ばかりを言うのだろうか。
それが、反応を見て楽しむ為だと言う自覚はある。
けれど、それだけではなく―――もっと、別の想いが含まれているのでは、と期待してしまう浅はかな自分。
一回りも年下の、まだ少年とも言えるくらいの年齢の彼に振り回されている自分は滑稽だった。

「…気のせいじゃなかったんですね」

頬に集まる熱を自覚し、それが治まった頃に紅はそう告げた。
一番初めの対峙と、それから数回は、やたらと強くとても勝てそうに無いと言う印象を与えられている。
しかし、それ以降はガードされるとは言え自分の攻撃も入るようになっていて。
鍛錬のお蔭か?と自惚れた事もあったのだが―――現実は違っていたらしい。
彼が手を抜き始めていたのだとすれば、その変化も頷けると言うものだ。

「君も強くなってはいるけどね」

まだまだ甘いよ。と言われ、紅は肩を落とす。
ぬか喜び、とはまさにこの事だろう。
まるで子供のように師匠であるディーノに報告したあの電話の内容を消し去りたいと思った。

「(ディーノ…どうやら、私は彼の手の上で転がされてたみたいだわ…。)」

今この場に居ない彼に向けて、紅は心中でそう報告した。
紅の喜びをあざ笑っていたわけではないだろう。
そう、言うならば…手を抜いた事だって、気まぐれなのだ、きっと。
喜ぶな、喜んではいけない。
結局、また自分の思いだけが空回りするのだ。
こう思い込まなければならないこと自体が何とも情けない気がするのだが、背に腹は変えられない。
瞼を伏せ、すぅっと息を吸い込む。
新鮮な空気を肺へと送り込めば、ほんの少しだけ心が落ち着いたような気がした。














「今週末で退院するよ」

何の前触れも、先ほどまでの会話の名残もなく、雲雀はそう言った。
これ以上眠るつもりはないのか、彼はすでにその身体を起こしている。

「もう体調は大丈夫なんですか?」
「悪いようには見えてないでしょ」

紅ならば気付いているだろう、と言う考えがその言葉に含まれていた。
無論、医療も齧っている彼女には体調の良し悪し程度は分かる。
彼に風邪の名残がないことも気付いていて、近いうちに退院するんだろうな、と考えていたくらいだ。

「学校には翌日から?」
「よく分かってるね」
「雲雀さんですから」

退院してからも暫く学校に行かないとは思わない。
尤も、思いたくない、と言う紅の願いも込められていたが。
彼に目を通してもらわなければならない書類が溜まっているのだ。
何故たかが中学校の委員会でこれほどに書類が出てくるのだ、と愚痴の一つも零したくなるほどに。
そうして話が終わった所で、タイミングよく病室のドアがノックされる。
また新たな生贄が…?と何とも失礼な事を考えつつ、紅はドアの方へと歩み寄った。
ガラリと開かれたそこに居たのは、ここ数日で顔なじみになった看護師だ。

「あ、雪耶さん。やっぱりここだったのね」
「私に何か用事ですか?」

彼女の目的は雲雀ではなかったらしい。
紅がそう尋ねれば、彼女はニヤニヤと笑って口を開く。

「格好良い彼氏が病院前で待ってるわよ。早く行ってあげないと」
「は?彼氏…?」
「惚けちゃって!外人の彼よ、ほら、今日廊下を一緒に歩いていたでしょ?」
「…あぁ。彼が待ってるんですか?」
「ええ。丁度外に出る用事があったから病院前を通ったんだけど、その時に言付けを頼まれたの」

言付けと言っても、ただ単に「病院前で待っている」と伝えて欲しいと頼まれただけらしい。
いつもならば携帯で連絡する所だが、生憎紅のそれは電源が入っていない。
恐らく、彼は紅が帰る時まで待っているつもりだったのだろう。

「分かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして。雪耶さんも大変ねー。三角関係?」

そう言って悪戯に笑うと、彼女は指先で三角を作ってみせる。
まさか、と首を振る紅に、彼女は残念そうに声を上げた。

「あら…じゃあ、彼が友達だったのかしら?」
「はい?」

彼、と言うところで雲雀の方を見るものだから、思わずそんな声が漏れてしまった。
何をどう見ればそうなるんだ、と問い詰めたい思いを何とか押さえ込み、どうしてです?とにこやかに尋ねる。

「だって、金髪の彼にガールフレンド?って聞いたら『そんな所』って答えてたわよ?」
「…あー、もう…。とにかく、ありがとうございました。仕事に戻ってください」

彼の所にはすぐに行きますから、と告げると、さっさと追い出そうと扉を閉める。
仕事の時間が迫っていたのか、彼女は抵抗する事もなくいやらしい笑みを残して「じゃあね」と去った。
室内に何とも言えない沈黙が下り、紅は心底彼女を恨みたくなる。
よりによって、雲雀のところで何を言ってくれるんだ。
彼の機嫌が悪ければ、彼女は無事に部屋を出る事は叶わなかっただろう。
恐いもの知らずと言うか天然と言うか…。
盛大にかき回してくれた嵐のような彼女に、紅は深々と溜め息を吐き出した。

「…彼氏じゃありませんから。彼女が言ってたのは…師匠の事です」

弁解を望まれたわけではないが、勝手に口がそれを告げていた。
それに気付いたのは言い終わってしまってから。
なんて事を仕出かすんだ、この口は…そんな事を思いながら振り向けば、肩を震わせる雲雀の姿が映る。
何がお気に召したのかは分からないが、とにかく彼は笑っていた。
声を殺して、肩を震わせて。

「…雲雀さん?」
「……本当に、わかり易いね、君は」

はぁ、と呼吸を整えるように息を吐き出し、彼はそう答えた。
馬鹿にされただとか、そんな風には思わない。
それでも、何と言うか―――この上なく、恥ずかしい。
穴があったら入りたい、と言う状況を自分自身で体験しつつ、紅は口を開く。

「…放っておいてください。こう見えても、何を考えているのか分からないってよく言われるんです」
「そんなに筒抜けなのに?」
「………」

それはあなただけです、と言う言葉を何とか飲み込み、紅は深呼吸を一つ。
そして、この話は終わりだとばかりに空気そのものを変えた。

「聞こえていたならわかったと思いますけれど…待ってくれているみたいですから、今日のところは帰ります」
「うん」

引き止めるでもなく、彼はあっさりとそう答える。
こちらとしてはその方がありがたいはずなのに、どこか遣る瀬無いと感じるのは何故だろうか。
自分ばかりが心をかき乱されているように感じてならない。
それは、気のせいでも何でもないのだけれど。

「退院が決まってから風邪をぶり返すなんて事はしないでくださいね」

そう言い残して、紅は荷物を纏めて逃げるように病室を後にする。
今日会ったばかりにもかかわらず、待っていると言うディーノ。
恐らくは言うべき事を忘れていたのだろう。
それは一体なんだろう、と考えていれば、自然と先ほどまでの焦りは治まっていく。
荷物を肩に担ぎなおし、紅は足を速めた。

07.02.10