黒揚羽
Target  --039

「あれ、紅?」

ガラッと病室の扉を引いたところで、紅はそう声を掛けられた。
聞き覚えのある声に顔を上げれば、松葉杖をつきながら歩いてくるツナが目に入る。

「…どうしたの?もう出歩いてもいいの?」

先ほど病室で別れた時には、まだ足を酷使してよい状況ではなかったように思う。
ギブスをしているのだからそう滅多な事はないだろうが…それでも、安静にするに越した事はない。
そんな彼が、何故ここに居るのか。
驚いたように扉に手をかけたまま首を傾げる紅に、ツナは大まかな経緯を説明する。
次々にやってくる見舞い客によって病室を追い出されたという彼に、紅は苦笑した。
理由はいたって簡単で、その見舞い客の中にディーノも含まれていたからだ。
幸いと言うか何と言うか…自分の名前がそこに連ねられる事はなかったが、結果としては大きな変化は無い。

それにしても―――何故、病室を追い出されてこの部屋の前に?

そう疑問を抱いた所で、紅はハッと気付く。

「もしかして…この部屋の主と相部屋…?」
「え、あ…うん。そうらしいんだ。何だか、看護婦さんもさっさと戻って行っちゃったし…」
「…ご愁傷様」

そう言わずにはいられない。
何とも間が悪いと言うか、運が悪いと言うか。
この、それなりに広い病院内で、何も彼と相部屋にならなくても…と思う。
先ほど見た光景にツナが加えられるかと思うと、何とも言えなくなってしまう。
止める事は出来ないわけではない、けれども、その選択肢は紅の中にはない。
事の成り行きを見守り、被害が最低限に止まるようには努力することにしよう。

「この病室の患者さんは紅の知り合い?」
「うん。まぁ…。入ってみれば分かるよ」

今ここで話さなくても数秒後には自身の目でそれを目の当たりにすることになるのだ。
あえて説明はするまい、と紅はその表情を苦い笑いへと変えた。

「…まぁ、とりあえず入るよ」

彼女の口からその人物が紡がれる事はないと判断したのだろう。
半ば自棄になっているようにも見える足取りで、彼は扉を開いた。

「やぁ」

そう声を掛けられ、彼の背中は面白いほどに飛び上がった。
表情は見えないけれど、きっとこれ以上ないくらいに青褪めているのだろう。
廊下に立ったまま開いた扉から二人の遣り取りを見つめ、紅は溜め息を吐き出した。
不意に、ツナと話していた雲雀が彼女に気付く。

「紅、まだ行ってなかったの?」
「…すみません。すぐに行きますけれど…彼をトンファーの餌食にしないでくださいね」
「約束はしないよ」

と言う事は、場合によっては十分にありえるということか。
言っても無駄だとは分かっていたが、あまりにも想像通りの答えに肩を竦めた。
そして、彼からの言いつけを守るべくクルリと振り向いた所で、彼女の足は止まる。
彼女の目的そのものが、そこに立っていたからだ。

「あ、院長。どうもすみません」

態々来てもらって、と愛想笑いを浮かべる。
恐らく、彼女は手に職を持っていなくとも、立派に秘書やら受付嬢といった仕事に就く事ができただろう。
そう思えるほどに完璧な表情だ。

「いえ、こちらこそ遅れてすみません」

この院長とは何度か会った事がある。
警察沙汰になるような怪我の時に少々無理難題をお願いに来たりだとか、或いは雲雀の付き添いだとか。
そうして数回顔を合わせただけだが、相手にとって印象深かったのだろう。
すっかり雲雀の右腕としてインプットされている彼女に対する言葉遣いは丁寧だ。
普通、一般的な中学生に向けるそれとは比べものにならない。
元はすでに成人しているのだから、こう言う扱いをしてもらえる事は嬉しい。
嬉しいのだが―――心の片隅が「微妙な心境だ」と訴えてくるのは否めない。
どうにも、虎の威を借る狐と同じのような気がする。
自分自身が望んだ事ではなくとも、結果としてそうなってしまっているのだからそう思っても無理はないだろう。
直角に腰を折って紅に挨拶をした後、院長は雲雀の病室へと入っていく。
彼を呼んできて、と言い付かっていたのだから、目的は達成された。
自分は廊下まで歩いただけなのだが…終わりよければ全てよし。
ツナにとっていい方向に話が転がるとは思えないが、そこは彼自身に頑張ってもらうとしよう。
紅も部屋の中に入り、口を挟む事無く話を聞く。
失礼します、と院長が出て行ったところで、雲雀が改めて口を開いた。

「今のところ、このゲームの勝者は一人だよ」
「一人って…まさか、紅?」

確認するようにツナの視線が彼女へと向けられる。
このゲームは単純明快。
雲雀が寝ている間に物音を立てれば咬み殺される、ただそれだけ。
尤も、紅以外の口からは「それが嫌なんだ」と言う言葉が返ってきそうだ。
くるくると悪戯にトンファーをチラつかせる彼に、ツナがまた一歩ドアの方へと下がりつつ、縋るように紅を見る。
一方、問いかけられた彼女はと言えば、曖昧に微笑むだけだ。

「残念ながらね。彼女は、足音は疎か、気配すらなくなるから」
「買いかぶりすぎですよ。偶然ですから」

そう謙遜しておくが、これは事実だ。
足音を極限まで潜ませる事が出来るのは、危険な薬品を運ぶ為に亀並みの歩行をすることに慣れているから。
それが、足音を潜ませる事とよく似ているらしい。
気配云々に関しては、キャバッローネの中にその道のプロが居て、その人に教えてもらった。
適当に遊びながら教わったのだが、意外にも雲雀の警戒網内でも有効なほどの効果があった、と言う訳だ。
彼はよく応接室で眠る。
それを起こさないように活動しているので、日々経験を積む事になったと言うのも理由の一つだろう。

「…是非伝授して欲しいよ、その特技…」
「日常生活においては全く役に立たないわよ?これ」
「…今も俺にとっては日常生活のはずなのに…」
「…頑張れ」

何の役にも立たない応援だったが、少しだけ心が軽くなったようだった。










騒音ことランボを抱え、慌しくツナが移動していた頃、紅はのんびりと病室に居た。
彼女からすれば簡単すぎる数学の問題を解く。
時間を持て余しているなら、家に帰ればいい。
そう思うのだが、何となく雲雀が起きるまでは病室に居ようと思った。
尤も、彼が起きずに見舞いの時間が終了すれば帰るつもりだが。
カリカリ、と言う音すら立てず、紅は問題集を見下ろす。
その問題を読むと脳内で計算を進め、答えまで辿り着いた所でシャーペンをノートに立てる。
そして、殆ど音を立てないように面で芯を使いながら、ノートに問題番号と解答だけを記した。
無論、授業中に当てられたとして、その途中式が答えられないなんて事はない。
流石にNASAレベルともなれば暗算は難しくなってくるだろうが、中学生程度の問題は朝飯前だ。
恐らく、高校卒業程度までならば、悩む事もなく解答出来る。
紅自身はセンター試験を受け、有名かつレベルの高い大学へと進学した。
その後も勉強に精を出し、卒業後もその方面で力を伸ばしていた最中だ。
まだまだ現役と言ってもよい彼女からすればつまらない以外の何物でもない問題。
それでも、時間を潰すには悪くないものだった。
ツナがランボを抱えて病室を離れてすでに5分。
その間に問題集を数ページ進めた紅は、不意に視線を感じて顔を上げる。
そこには、見慣れてはいないけれど顔見知りではある存在がこちらを見ていた。
じっと、それこそ穴が開きそうなほどに。

「…?」

視線を向けているのは沢田家で度々顔を合わせるイーピンだ。
何か見つめられるような事をしただろうか、と自身を見下ろしてみる。
だが、特に気になることもなくもう一度彼女を見たところで、その視線が自分に向いているわけではないことに気付いた。
僅かに、ほんの僅かにだが、ずれている。
視線の先を辿り、納得した。
彼女の視線の先にいるのは、ツナの涙ぐましい努力など素知らぬ顔で眠る雲雀だ。

「(…なるほど…。イーピンも女の子なのねー)」

すぐ傍らに椅子を置き、机を借りている自分の姿は目に入っていないらしい。
緋色のオーラでも見えそうなその眼差しに、紅は声を殺して笑った。
さっき自分が似たような感情で盛大に照れて病室を逃げ出した事など、脳内から消えうせている。
普段は素晴らしい記憶力だというのに、何とも都合の良い頭だ。
イーピンが照れるのも時間の問題かなぁ、と考えた所で、開けっ放したドアからパタパタと足音が聞こえてきた。
ランボの悪戯を処理したツナが戻ってきたのだろう。
その意見に達するとほぼ同時に、イーピンの広い額に箇子時限超爆のカウントダウンが浮かび上がる。

「うそ、なんでー!?イーピンが照れるような事は何も…!!」

そんなツナの切羽詰った声に、紅はつくづく苦労人だなぁと人事のように頬杖を付いた。

07.01.28