黒揚羽
Target --037
半ば逃げるようにして、紅は雲雀の病室を後にした。
医院長を呼んできて、と言う彼の頼みもあったのだから、不自然すぎると言う事はなかったはずだ。
ズンズンと物も言わずに廊下を進み、先には非常口しかないと思しき場所までたどり着いた。
そこで、紅は壁伝いに座り込む。
「何なの!?10代の女学生でもあるまいし…!私服程度で照れるような年齢じゃないでしょう!?」
自分に問いかけるように、紅は大きすぎない声でそう言った。
確かに彼の私服姿は初めてだけれど、動けなくなるなんて予定外だ。
こんなにも、彼に心を掴まれているだなんて―――
「駄目。絶対に…駄目」
言い聞かせるように、ぶつぶつと駄目と繰り返す。
認めてはいけないのだ。
認める覚悟なんて、自分には―――
「…紅?」
不意に、名前を呼ばれた。
自身を抱きしめるようにしてその場に蹲っていた紅は、ゆっくりと顔を上げる。
廊下の電気を背中に背負っていて顔は見えないけれど、彼の背後に並ぶ人壁やその身に纏う空気、そして声からわかる。
「ディーノ…」
「どうした?怪我でもしたのか?」
「……っ」
何かに縋りつきたくて、紅は自身の肩を抱いていたその手を彼に向けて伸ばす。
その行動に驚くディーノだが、すぐに彼女の手を取った。
そして軽く反動をつけて立ち上がらせると、その勢いのままに凭れかかってくる彼女に慌てる。
「体調が悪いのか?」
それならば、医者に診せなければ。
そう思ったディーノが隣に立つロマーリオを見る。
分かった、とばかりに彼が踵を返しそうになったところで「違う」とか細い声が聞こえてきた。
「違うの…何でもない。………少しだけ…」
こうしていて、と言う言葉は紡がれなかった。
けれど、含まれた思いはちゃんと彼に届く。
片腕だけでロマーリオを止め、代わりに部下全員にその場から去るよう指示を出す。
促すような手の動きに、彼らは紅を案じながらも足音を小さくその場を去っていった。
人の通りもなくシンと静まり返っている廊下。
こうしていると、この建物の中には自分と紅しか存在しないような錯覚を起こしてしまう。
すっぽりと腕の中に納まってしまう彼女を見下ろし、ディーノはその背中をトントンと撫でた。
何があったのかはわからないが、随分と参っているらしい。
普段は心配させないように笑顔を絶やさない彼女が自分に縋るなど…よっぽどだ。
「紅、落ち着け。大丈夫だから」
何が?と問われれば答えることは出来ないだろう。
しかし、その言葉は紅にとっては優しかった。
すんなりと入ってくる声は、波立った心に穏やかさを戻していく。
泣き叫ぶでもなく、その背中に手を回すでもない。
ただ、彼の服の裾を指三本できゅっと握り、額を胸に当てるだけ。
―――まだ、大丈夫。
悪足掻きかもしれないけれど、まだ。
まだ、この気持ちの名前を知らず、そして認めずに居られる。
一度息を吐き出すと、何かを言う前に、紅はまず額を離した。
それに気付いたディーノが背中に回していた腕を解くのを確認して、彼から一歩下がる。
そして、時間をかけてその顔を上げた。
「ごめんね、急に。驚いたでしょう?」
「いや…。大丈夫か?」
「ええ、落ち着いたわ。ありがとう」
多少は無理をしている笑みではあったけれど、そこは追求せずに頷くディーノ。
彼女が大丈夫だと言うなら、それを信じてやるのも自分の仕事だ。
ポンと頭を撫でてやれば、彼女はどこか苦笑にも似た笑みを浮かべた。
「気にすんな。落ち着いたなら、それでいい」
「ディーノはどうしてこんな所に?」
「あぁ、ツナに怪我をさせちまってな…見舞いだ」
初めての病院だから、少し迷ってしまったらしい。
偶然に、廊下に蹲る自分を発見した時には、驚いたのだろう。
騒ぎを大きくしなかっただけでも感謝すべき所だ。
「じゃあ、私も行こうかな…」
「よし。じゃあ、一緒に行くか。………連れて行ってくれ」
「ええ。とりあえず、ナースステーションで彼の入院している部屋を聞きましょうか」
そう言えば、彼は頷いて歩き出す。
その背中に続きながら、紅はふと先ほどの事を思い出した。
抱き返さなかったとは言え、彼に凭れかかって背中を抱かれていた自分達の姿は、恋人同士のそれだっただろう。
けれど、彼女の中にそんな考えは微塵もなかった。
ただ、兄のように慕う彼の空気に安堵して、不安な心が彼にすがり付いてしまっただけだ。
落ち着いてみれば、彼を利用してしまったような気がしてとても居心地が悪く思えてきた。
そんなつもりはなくても、結果としてそうなってしまったのでは意味がない。
彼は笑って、先ほどのように「気にするな」と言ってくれるだろう。
「紅?」
いつの間にか足を止めてしまっていたらしく、ディーノがいつまで経っても付いてこない紅の名を呼んだ。
ハッと我に返り、何でもないと答える。
そう答えると、彼は「そうか」と呟くように言って、彼女の手を取った。
驚きはしたけれど、そこに何と言うか…どきどきと鼓動が弾む感覚はない。
―――あぁ、やっぱり『彼』は特別なのか。
否応なしに、そう感じさせられてしまった。
「紅に合わせたら時間がなくなっちまいそうだからな」
「子供じゃないんだから…」
「その格好なら十分子供だろ」
確かに彼からすれば子供かもしれないけれど…と思う気持ちが口を噤ませる。
その沈黙に、ディーノは得意げに笑みを深めた。
その笑みが「気に入らないな」と思わないのは、一重に彼の人となりが良いからだろう。
「皆はどうするの?」
「あぁ、呼ぶか」
「ディーノ、病院内は携帯厳禁」
ポケットからそれを取り出した彼に、紅はひょいとそれを抜き取ってしまう。
そして、すでに病院内にも関わらず携帯の電源が入っていることに眉を寄せ、電源ボタンを長押しする。
ブラックアウトしたディスプレイに満足すると、パコンとそれを閉じて彼に差し出した。
「悪い。忘れてた」
「私に謝っても仕方がないことでしょ」
「それもそうだな。…さて…どうやってあいつらと合流するかだが…」
そんな会話をしながら、それなりに人通りのある廊下へと出る。
角を曲がって暫くすると、後ろから二人組みの男性が二人を追い越していった。
何か楽しい話をしているのか、笑顔と共に。
そんな彼らを見るともなしに見ていた紅だが、不意にその二人が一つ向こうの角を曲がろうとした所で止まる。
そして、双子か?と疑問を抱いてしまうほどに同じ動き、同じ速さで踵を返すと、物凄い速さでこちらへと歩いてきた。
すれ違った彼らの顔色は青い。
「この病院ってなんかやばい人間でも入院してんのか!?」
「声を潜めろよ!あいつらの仲間が聞いてたらどうするんだよっ!」
そんな言葉を交わしながら、二人は競歩の如くスピードで遠ざかっていく。
彼らの足音が聞こえなくなった所で、紅とディーノは顔を見合わせた。
「………探すまでもなさそうね」
「…だな」
そして、二人して足並みを揃えて一つ向こうの角まで歩く。
―――あぁ、うん。これは流石に一般人が見たら恐い…って言うか、逃げたくもなるわね。
一つの廊下を黒く染める彼らを目の当たりにし、そんな事を思ってしまったのは彼女だけの秘密だ。
07.01.13