黒揚羽
Target --036
コンコンッとノックをする。
暫くして「入っていいよ」と言う返事を受け、紅はその部屋に入るべく、ドアを引いた。
ガラッとそれを開き、先ほどノックに答えてくれた人物を見る。
と、そこで彼女の動きは静止した。
「…何?」
一歩目の続きを踏み出すわけでもなく、ドアを閉めるわけでもなく。
それなのに、自分に声を掛けることすらしない彼女に、彼、雲雀は手元の本から視線を上げた。
紅の方へとそれを移動させれば、見事にドアを開いたままの姿勢で止まっている彼女が目に入る。
呼吸をしているのかと言う事すら疑問に感じるほどに、瞬き一つさえない。
「……………紅?」
とりあえず、名前を呼んでみた。
彼女はよほどの事がない限り、名前を呼べば反応を見せる。
それが分かっているからこそ、彼は敢えてそんな行動に出たのだ。
効果はあった。
「し、失礼します…」
ぎこちない足取りで、腕に提げていたビニール袋をぎゅっと抱きしめつつ歩く。
正直な本音を語れば、今すぐにでも回れ右して部屋から飛び出したい。
それくらいに、紅の脳内では焦りや戸惑い、そしてそれ以上の恥ずかしさが溢れていた。
いや、厳密に言えば恥ずかしさではなかったのかもしれない。
だが、彼女の思考はその答えを探し出す事すら放り出してしまっていた。
「学ラン…持ってきました」
そう言って、紅はビニール袋入りのそれを差し出す。
彼女が雲雀の学ランを持っているのには、訳があった。
暁斗を急かせて病院へと急いだあの日から、すでに四日経っている。
風邪自体はそう酷くなかった筈なのだが、何故か彼は入院扱いになっていた。
その辺は彼本人と病院との密会があったと思われるが、紅の知る所ではない。
入院の理由は『風邪をこじらせたから』と聞かされ、事実ではないだろうと悟りつつも納得しておいた。
病院内でも学ランで生活するわけにも行かず、必然的に手放される事となったそれ。
丁度、自分のそれをクリーニングに出そうと考えていた紅は、彼のものも共に出しておこうかと進言した。
ついでならばと彼も頷き、紅は昨日出来上がったそれを手に現在に至るというわけだ。
「あぁ、ありがとう。早いね」
それを受け取って脇に置く彼を見ないようにしながら、紅はじりじりと下がっていく。
足だけをゆっくりゆっくりと動かすその速度と言えば、ナメクジといい勝負かもしれない。
大げさに下がる度胸もなければ、この距離に止まる心臓の強度もない。
ただでさえ、血圧の心配をしたくなるほどに忙しく脈打っていると言うのに。
「――で、何で離れていくの?」
逃げるものを見れば、追いかけたくなるのは野性の本能だ。
雲雀が紅の腕を取ったのも、それに似た本能的なものに後押しされての事だろう。
「は、離れてるってわかってるなら掴まないでくださいよ…っ」
「赤くなったり青くなったり…忙しいね、本当に」
青くなったのはあなたが掴んだ所為です、と言う言葉をなんとか飲み込むことに成功する。
尤も、彼の言う『赤くなったり』と言う状況も、彼が原因なのだが。
何かを伝えようと口を開き、けれども結局言葉にはならずに空を噛む。
そんな仕草を見せた後、紅はふいと視線を逸らした。
「学ランじゃない格好を見るのは…初めてですから」
少しだけ、照れただけです。
それは言わなかったけれど、態度からは伝わっただろう。
きょとんと目を見開く彼の表情は中々珍しい、なんて思う余裕は、残念ながら今の紅にはない。
この沈黙がどうにも居た堪れなくて、思わず足が動きそうになる。
足を動かした所で腕を掴まれていれば逃れる事は出来ないのだから、無駄な足掻きに終わるのが落ちだ。
さて、どうしようか。
いくらか冷静になった頭で、それを考えたその時。
ぐいと腕を強く引かれ、紅は僅かに体勢を崩して前へと二歩だけ進む。
同時に、視界に入り込む楽しげな笑みに、零れ落ちんばかりに目を見開いた。
「面白い反応だね」
そう言って口角を持ち上げると、雲雀は覗き込むのをやめて、ついでに彼女の腕も放す。
解放されたにも拘らず、紅はその場から動こうとはしなかった。
「(相手は年下、相手は年下、相手は年下…!)
………もう、からかわないでくださいよ。ただでさえ、初めての私服姿に目のやり場に困ってるんですから」
私服と言うよりは寧ろ寝巻きに近いのだが、そこはあえて私服と言っておく。
年下に振り回されていてどうする、と自身に何度か言い聞かせ、漸くいつも通りを取り戻しつつあった。
言い聞かせている時点ですでに手遅れのようにも思えるが。
「それにしても…雲雀さんの私服姿。かなりレアな光景ですね」
落ち着いてみれば、その珍しさが理解できた。
夏祭りの時でさえ、彼は私服ではなく学ラン姿だったのだ。
開いたままだった本に視線を落とそうとしている彼を見ながら、冷静になれば平気なものだな…と思う。
部屋に入るなり、静止してしまったのは見慣れぬ彼の姿が原因。
学ランの時とはまた違った空気を纏う彼に、自然と緊張してしまったのだ。
それと同時に、煩いほどに心臓が脈打っていた。
―――こんな感情、知らない。
―――こんな感情、認めない。
ゆっくりと、でも確実に首を持ち上げてきているその感情に、紅は頭を振った。
何をしているんだ、とでも言いたげな雲雀の視線に、苦笑する。
なんでもないと答えると、明らかに納得していない目が数秒向けられるが、結局何も言われなかった。
「いつ頃退院するつもりなんですか?」
一番初めの日に見舞いと称して持ってきた花は、まだ綺麗に咲き誇っている。
その花瓶の水を替えながら、紅は彼に問いかけた。
萎びてしまっている一輪を束の中から抜き取りつつ、返事のない彼を振り向く。
どうやら、本の内容に集中していて聞こえないらしい。
いや、もしかすると聞こえていても聞こえていない振りをしているのかもしれないが。
「…」
まぁ、別に答えてもらわなくてもいいか。
そう思うと、紅は肩を竦めて花の方へと向き直る。
花瓶を洗って、新しい水を入れてその中に花を挿す。
ある程度形を整えた所で、ガラスの花瓶ごとそれを抱えると、元々置いていた窓際の台へと歩いた。
コトンとそれを置き、窓の外を見下ろす。
そこから差し込んだ日の光が、彼女の明るい茶色の髪を美しく照らした。
見下ろした先には中庭があって、パジャマ姿の子供が三人ほど遊んでいるのが見える。
今が朝だと言える時間である事を除いても、その格好から入院患者である事は明らかだった。
元気に遊んでいるように見えるのに、どこか悪いんだろうか。
そんな事を考えると、何だか少しだけ心が気落ちしてしまう。
思えば、この道に進んだ理由は、ああ言う子達を助けたいと思ったからだ。
自分にできる事と言えば小さな事だけれど、とりあえず見える範囲から頑張ってみよう。
そう思ったのが、紅に薬剤師と言う職を持たせた理由だった。
差し込む光が雲雀の方へと伸びている事に気付いた紅は、カーテンを引いて窓に背を向ける。
ベッドに腰掛けて本を読んでいる彼を見て、彼女はそっと目を細めた。
年下だなんて言い訳、何の役にも立たない。
無言の横顔にすら惹かれている自身を、止める術など持っていなかった。
実年齢は20歳を超えている事もあり、恋愛経験がないとは言わない。
けれど、沈黙が苦しくないと思ったのは、これが初めてだ。
ディーノや暁斗といる時ももちろんそうなのだが、彼らは家族愛の方が近い気がする。
「…どうしたの?物も言わずに人の顔を見て」
視線に気付いていたらしく、雲雀は突然顔を上げた。
その言葉に紅の肩が跳ねるのを、楽しげに見つめてくる彼。
「いえ…雲雀さんでも本を読むんだなぁと思いまして。面白かったですか?その本」
「うん。悪くはないね。暇つぶし程度なら読めるよ」
毎日進んで読みたいとは思わないけれど、と言う言葉が続いたが、面白いと言う肯定の返事が聞けただけでも十分だ。
満足げに微笑んだ彼女に、彼もその口角を持ち上げた。
「本当に…君と居ると、退屈している暇がないね」
紅はその笑みと言葉に、切なく目を細める。
期待させないで。
――ここが自分の場所だと、勘違いしてしまう。
自覚させないで。
――こんな感情は許されない。
だって、あなたは―――
07.01.12