黒揚羽
Target --035
雲雀が応接室に戻って、それから約5分。
漸く薬が効いたのか、紅は完全に思考を取り戻す事に成功していた。
今から教室に戻るのも…と思い、応接室に居座っている。
まぁ、それはいつもの事なので本人も、そして雲雀も気にしてはいなかった。
「…雲雀さん」
「何」
「今年の夏祭りで徴収したお金の残金が一致しないんですけれど…。何か使いました」
「………あぁ、そう言えば…校舎の壁にヒビ入れた、その修理代だね。確か、その辺に請求来てるよ」
「…あれほど校舎は壊さないように言ったのに…」
因みに、ここで雲雀に文句を言わないのは、彼では無いと言う確信があるからだ。
彼が関わっている場合、少なくとも学校側は請求書を出してきたりしない。
そのまま放置、もしくは、いつの間にか直っている。
まぁ、彼が校舎を破損させると言う事はまずありえないし、それを聞いた場合は紅が密かに直しに行くので問題は無い。
「じゃあ、これはそれと照らし合わせるとして…片付けておくものってあります」
視線を向けずにそう問いかければ、窓辺に居る彼の方からファイルが飛んできてテーブルの上を滑る。
ピタリと止まったそれは、紅のほぼ真正面で停止した。
「今度停学が切れる生徒のリスト。全員覚えて」
「…まぁ、学校に停学があるのはおかしくないと思いますけど…。風紀委員の彼らがそれに値しないことが不思議でなりません」
自分の記憶が正しければ、法に触れるようなことまでしている筈だ。
それなのに、何故彼らは無事で、生徒は停学処分を受けているのか…。
それを疑問に思うことすら無駄かもしれないが、紅は首を捻った。
「そんなの…風紀委員が取り締まってるからに決まってるよ」
「…あぁ、なるほど」
要は、警察官は検挙されにくいのと同じだ。
まさか取り締まる者が規律を乱しているなどとは思わない…というよりも、乱していても無視しているらしい。
何とも風紀委員らしいな、と思いながら、紅はそのファイルをペラリと捲った。
普通、こんな人数の停学処分者は出ないだろう。
そんな突っ込みを喉の奥へと追いやり、一人ずつ顔と名前を一致させていく。
頭の片隅で面倒だと思いつつも、手を抜こうと言う考えの浮かばない自分に軽く苦笑を浮かべ、また1ページ捲った。
そんな作業を繰り返していた紅は、不意にある事を思い出す。
俯けていた顔を上げ、雲雀の方を向いた。
「雲雀さん、体調に異変は―――」
さっきの彼の体温が気になり、紅はそれを問いかけようとした。
しかし、彼女の視界に入ってきたのは窓に背中を預けるようにして俯く彼。
心なしか、呼吸によるその肩の揺れが大きい。
「雲雀さん…!?」
重いソファーは、勢いよく立ち上がってもピクリとも動かない。
持っていたファイルを放り出して窓の方へと駆けて行けば、それを制するように彼の腕が持ち上げられた。
けれども、いつもの強さは無く、どこか気だるそうな動き。
「…放っておいて。少し休めば治る」
それだけを言うと、彼によって動きを制された紅の脇を通って覚束ない足取りでソファーへと歩く。
そしてドサリとそこに倒れこむと、彼は腕を目元に乗せたまま動かなくなった。
「………どうしよう…」
放っておけ、と言われたが、自分の生業上こんな状態のままで放置できる筈もない。
しかし、ここに満足のいく設備があるはずも無く…。
彼の様子から診るに、ただの風邪だとは思うが、このままだと拗らせてしまいかねないだろう。
「…後で怒られるのは覚悟しないとね…」
そう呟きながら、紅は携帯を片手に給湯室へと足を運んだ。
アドレス帳から見覚えのある番号とそしてその名前を探し出し、コールする。
数回の電子音の後、相手は出た。
「あ、暁斗?5分以内に、今から言う薬を持って学校の応接室まで来てくれない?」
『…開口一番それか?まずは、説明だろ』
「…お願い…出来るよね?」
『………………………あぁ』
「ありがとう、助かるわ。薬は―――」
彼の沈黙は、自分の中での葛藤の時間だったのだろう。
そんな事は気にせず、態々嬉しさを露にした声でお礼を言って、内容を伝える。
全てを伝え終わった所で彼の復唱を聞き、それに間違いがないと伝えた。
そして、電話を切る。
「…さて、と。とりあえず、出来る事をしておこうかな」
誰に言うでもなくそう言うと、先ほどまで自分が目元を冷やすのに使っていたハンカチを水道で洗う。
持っても肌に水気が付かない程度に絞ると、それを片手に応接室へと戻った。
足音を忍ばせてソファーへと近づき、そこに横たわる彼を見下ろす。
目元を覆う腕に手を触れようとして、一旦それを止めた。
普段ならば、このまま彼に触れようものなら次の瞬間には容赦なくトンファーが向かってくるだろう。
その反応が出来るならば、よし。
出来ないならば―――
「よっぽど酷いってことね」
自分の安全を賭けた危険な行動ではあるが、どの道腕を退けなければ頭を冷やす事が出来ない。
よし、と心を決めると、ハンカチを持たない方の手で彼の手首を持ち上げる。
そう何度も触れたわけではないけれど、明らかにその手から伝わる体温がいつもと違う事は分かる。
腕を完全に下ろした今でも、トンファーが出てくる気配は無い。
どうやら、容体は悪いらしい。
「…まったく…強がらずに帰ればよかったのに…」
恐らく、この声も届いてはいないだろう。
濡らしたハンカチを彼の額に乗せながら、紅はそう呟いた。
風邪を引いた人の看病なんて、何ヶ月ぶりだろう…そんな事を考える。
確か、最後に看病したのは、去年の冬で…相手は暁斗だった筈だ。
そんな事を考えていると、不意に廊下が騒がしくなった。
騒がしく、と言っても荒々しい足音が一つ近づいてくるだけだ。
その主を悟り、紅は軽く眉を寄せる。
「紅!」
「もう少し静かに入ってこられないの?」
ドアを開くなり、そう言われた暁斗は思わず「悪い」と謝罪を口にする。
そして、その後ソファーの雲雀を見て、目を見張る。
「何だ?怪我でもしたのか?」
「体調を崩しているの。薬は?」
「あぁ、だからか…。薬ならここ、に…」
そう言って、彼は内ポケットの手を入れる。
そして中を探るが、それらしきものが指先に触れない事に、彼の顔色はどんどん青褪めた。
「…暁斗?」
「あー………そう言えば、出かけ際に車のキーを忘れて取りに戻って…」
戻る時には手に持っていた薬ケース。
しかし、今思えばもう一度玄関を出た時には、確か手には車のキーしかなかった。
と言うことは、折角用意した薬ケースは今マンション、と言う事になる。
順を追って説明し、最後に結論を述べる暁斗に、紅の笑顔は深まった。
「雲雀さん、起きられますか?」
暁斗には何も言わず、雲雀の方を向いてそう声を掛ける。
ソファーの傍らに膝をついている所為か、彼との距離はさほど無い。
その距離の近さに半ば条件反射的に声を上げそうになる暁斗だが、自身の今の状況を思い出して口を噤んだ。
「…何…?」
「病院に行きましょう。放っておいていい状況じゃありませんから」
「………必要ない…」
「駄目です。彼に車まで運ばれるのと、自分で歩くのと…どっちがいいですか?」
問いかければ、返って来るのは沈黙。
しかし、紅の空気が「沈黙は前者」と語っていることには、暁斗ですら気付いた。
それだけは冗談じゃない、とばかりに、雲雀は黙したまま身体を起こす。
その拍子に自分の足に落ちたハンカチを見下ろし、次いで紅を見た。
紅は何も言わずにそれを受け取り、彼に手を差し出す。
「……………」
「…立つ時だけで構いませんから」
そう言うと、紅は彼の行動を待った。
一向に手を引こうとしない彼女に、雲雀は熱い息を吐き出した後、渋々その手を借りる。
言葉通りに、彼女は雲雀が立ち上がったのを見届けて、呆気ないほど簡単にそれを放した。
「暁斗。病院まで車の運転よろしく」
「は?何で俺がそいつを…」
「薬を忘れたのが誰だったか…知らないとは言わせないわよ」
いくらか低くなった声と、その鋭い眼差しに、彼は口元を引きつらせた。
脳裏に、彼女を怒らせて実験台にされた記憶が蘇る。
気がつけば、その手に車のキーを握ったまま「任せろ」と答えていた。
普段怒らないだけに、彼女は怒ると恐いのだ。
それを怒らせたのは自分に他ならないのだから…ここは、素直に頷いておくに限る。
たとえ、病院に運ぶのが、自分の大事な娘を掻っ攫おうとしている男だとしても。
07.01.06