黒揚羽
Target  --034

「紅…大丈夫?」
「大丈夫大丈夫」

心配そうに京子に覗き込まれるが、紅は何とか笑みを作ってそう答える。
しかし、その様子はとても大丈夫そうには見えなかった。

「顔色悪いよ…保健室に行ったら?ね、花もそう思うでしょ?」
「確かに、今にも倒れそうよね」

京子の隣で同じく紅を見ていた花がそう頷く。
その答えに、ほら、とばかりに保健室行きを促す彼女。
心中で苦笑しつつ、紅は仕方無しに頷いた。
このままでは保健室に行くまで監視の目が付きそうだ。
ガタリと椅子を引き、付き添うと言う申し出を丁重に断ると、やや動かしにくい身体を引きずって教室を後にした。

「…風邪かなぁ…」

――心配そうな京子の言葉は聞こえなかった事にして。










「…まさか二日酔いになるとはね…」

結局、朝方まで暁斗と飲んでいた紅。
太陽から逃げるようにベッドに入ったはいいが、冴えた頭は眠ると言う行為を許してはくれなかった。
とりあえず身体は休めたけれど…と言う状態で学校にやってきた彼女は、生まれて初めて二日酔いと言う体験をする。
流石に、純粋に心配してくれている京子に「二日酔いだから心配するな」と言うことも出来ず…。
紅は痛む頭を押さえて廊下を歩いていた。
初めから保健室に行く気など無い。
消毒の匂いが嫌いだから、などと言うつもりはなく、本当に病気で休んでいる生徒に悪いような気がしたからだ。

「あれ、紅?」

背後から聞こえた声に、紅はやや驚いたように振り向く。
それを表情に出す事はない。
しかし、声を掛けられるまで気付かなかった自分に、その体調が万全ではないと嫌でも理解させられた。
声の主ツナだけではなく、山本と獄寺も一緒のようだ。

「大丈夫?何かふらついてるけど…」
「あー…平気。今から保健室に行くしね」

そう言って笑みを浮かべるが、案じてくれた彼、ツナはまだ納得いかないようだった。
そんな彼に助け船を出すように、共に居た山本が廊下の先を指して口を開く。

「保健室はさっきのところを逆だろ?」

まだ覚えていないのか?と問いかける。
決してからかいではなく、純粋な質問のようだ。
彼女自身も、きょろと周囲を見回して気付く。
確かに、逆だ。
この先にあるのは…。

「無意識って恐いね…」

呟いた声は三人には届かなかっただろう。
紅の自嘲の笑みに首を傾げたのがいい証拠だ。
さぁ、どうやってこの道を進む事を納得させようか。
そう考えた時、紅はポケットの中の薬の存在を思い出す。

「薬飲んで寝てれば治るから」
「なら、余計に保健室だろ?」

山本の答えは尤もだ。
しかし、それに反応したのは、意外にも今まで口を噤んでいた彼だった。

「応接室で寝るつもりなんだろ?物好きな奴」
「ん、正解」

肩を竦めての言葉に、紅は苦笑を浮かべながら頷く。
今まで、彼と二人だけで話す時間はあまり無かったが、ツナを交えて何度か言葉を交わすことはあった。
お蔭でそれなりに警戒心のような物も薄れてきたのか、獄寺の言葉にも棘はない。
全くないと言うわけではないのかもしれないが、気になるほどではないのだから十分だろう。

「あ、でも薬は…」
「10代目。こいつはその道の権威っスよ。薬くらい持ち歩いてますって」

そうだろ?と言う視線に、紅は肯定の声を発する。
二人の様子に納得したのか、どこか安心したように「そっか」と笑うツナ。
紅はそんな彼らに微笑みを返した。

「じゃあね」

ひらりと手を振って彼らに背を向ける。
追ってくる気配も無ければ、去る気配も無い。
背中に三人分の視線を感じつつも、紅は振り向かずに歩いていった。
















コンコンと二度ほどノックして、返事を聞かずにドアを開く。
人気のない室内に、返事を待たなくて良かったと心中で呟く。
慣れたように応接室に入り、室内を横切って水道へと歩いていく。
ポケットから小さなケースを取り出した。
小分けされたそれの中から迷う事無く目当ての錠剤を指先で拾い上げ、掌に握りこむ。
それから、蛇口を捻った。
それに見合った量の水が流れ出し、シンクの中で帯を作るのを見下ろす。
暫くそれを見つめていた紅だが、目的を思い出して錠剤を口に含み、水道からの水を手で掬う。
冷たい水と共にそれを喉奥に流し込み、蛇口を閉じた。

「後は効くのを待つだけ、か」

症状が軽い眩暈だけで、吐き気などが無かったのは不幸中の幸いだろう。
ドサリとソファーに座り込むと、先ほど濡らしたハンカチを目の上に乗せた。
ひんやりとしたそれが肌を心地よく包んでくれる。
少し、頭が軽くなったような気がする。
気にならない程度ではあったが、どうやら頭痛も起こしていたらしい。
今まで二日酔いと言う経験をしたことの無い彼女には、それらはどこか新鮮なものに思えた。
色々と考えながら飲んだことが影響しているのだろうかと考えるが、結局憶測の域を抜けない。
暁斗の忠告を聞いておけばよかったか…と、冴えきらない頭のどこかで思う。









ぼんやりと聞いていた時計の針の音に、足音が重なった。
やがて、それは部屋の前で止まり、程なくして応接室のドアが開かれる。
足音だけで判別できるその人に、紅は口元だけで笑んだ。

「…何してるの?」

こちらが声を掛けなかったからだろうか。
珍しくも向こうからの言葉に、指先でハンカチを摘みあげて片目だけを露にする。
そして、ずっと閉じていた所為で若干ぼやける視界にその人を納め、口を開いた。

「少し休養を」
「…ま、別にいいけど」
「…雲雀さんはまた生徒と乱闘ですか」

問いかけのように語尾を持ち上げる必要は無かった。
彼の頬には、ポツリとついた一点の赤が重力に従ってほんの少しばかり尾を伸ばしている。
背もたれに沈めていた身体を起こし、ゆったりと歩きながら傍まで来ていた彼の前に立つ。
そして、先ほど目の上に乗せていたハンカチで彼の頬を拭った。

「血が付いてます」
「僕のじゃないよ」
「ええ、もちろん。返り血ですよね」

かなり初めの頃に付いたものだったのか、一度拭ったくらいでは取れない。
ハンカチの場所を変えてもう二三度動かして、漸く赤が消えた。
頬を固定していた手を下ろそうとして、ふと気付く。

「………雲雀さん」
「何?」
「…体調に不良な点は?」
「君の方が、顔色悪いよ」

即座に返って来た答えに、紅は深く溜めた息を深く吐き出す。
そして、ハンカチを畳みながら肩を竦めた。

「私のは大分マシになりました。それより…熱、あるんじゃないですか?」
「普通」
「そうですか。あー…今日は風邪薬の持ち合わせが無いですね。明日渡します」
「…聞いてないね」

短く溜め息を吐くと、それ以上否定する事無く紅を横切っていく。





彼の背中を見ながら、紅はうーんと頭を捻っていた。

「こう言うのなんて言うんだっけ…。イタリア生活が長いとどうも日本語が出てこないね…」

母国語なのに、とぶつぶつと呟く。
彼女の呟きが聞こえたのか、もしくは何か別の理由があったのか。
雲雀が何かのノートを片手にくるりと振り向いたところで、紅がパッと表情を明るくした。

「思い出した。鬼の霍乱だ」

言い終わるが早いか、ノートが後頭部に打ち付けられる。
角ではなかった為に痛みは殆ど無いが、ムッと眉を寄せて雲雀を見た。

「角じゃなかっただけ感謝しなよ」
「や、普通叩かれて感謝なんてしませんよね。どこぞの宗教じゃないんですから…」

06.12.23