黒揚羽
Target  --033

あれは、そう。
ディーノがキャバッローネ10代目ボスに就任して、まだ半年も経っていない頃の事だった。


ディーノの先代、9代目ボスの頃にキャバッローネに入った紅。
彼女は、持ち前の知識を生かしてその開発部に所属し、徐々に…けれど確実にその成果を上げていた。
常に高みを目指して研究を続ける彼女の姿勢は、ファミリーの中でも好感を持たれている。
英国の血が入っている所為か、日本人にしては長身で、すらりとした四肢が自然と目を惹く。
揺れるセミロングの明るい茶髪も、誂えたように彼女を引き立てていた。

雪耶紅。
まだ心身共に、20代の頃の話である。











20代と言えば、ファミリーの中で言えばまだまだ若造。
女性である事を考慮すれば、小娘と言ったところか。
そんな視線を受ける中、紅は弱音も吐かずに自身の地位を確立しようとしていた。
躍起になっているわけでもなく、ただ一生懸命だった。
もとより、その方面の知識に長けていた彼女は自然と薬品研究に自身の居場所を見つける。
ディーノが10代目ボスに就任したのは、彼女の地位がしっかりと確立された頃だった。

「紅!」

不意に、大量の研究資料を抱えていた紅は背後から名前を呼ばれた。
覚えのある声に、腕の資料を気にかけながら振り向く。

「ボス。お帰りでしたか」

お疲れ様です、と彼女は微笑む。
二時間ほど前に、他のファミリーに挨拶回りに行くと言って数人の部下を連れた彼を見送った。
今日の相手は、確か同盟ファミリーの…名前は忘れたが、キャバッローネよりも規模の小さいマフィアだったはずだ。
そんな事を思い出しながら、彼女は駆け寄ってくるディーノを待つように足を止めた。

「またそんな大量に抱えて…」

呆れたようにそう言われ、腕の中の資料の半分ほどを彼の腕に攫われる。
半分以上にしたいところだが、それをすれば彼女の機嫌が悪くなる事は必至だ。
率先するように歩き出せば、彼女も少し小走りにその隣に並んだ。

「だって…一度に済ませないと時間が勿体無いですし…」
「だからって危ないだろ。一度に済ませたいなら、誰かを使えよ」
「うーん…」

前にあれだけ言ったのに、まだ懲りていないらしい。
煮え切らない返事を返す彼女に、今後も同じ事をするんだろうなぁと思った。
紅を娘のように可愛がっていた9代目が指示した彼女専用の研究室は、もう2ヶ月もすれば完成する。
それに向けて、その膨大な資料をまとめる作業に入っているらしい。
何度も大量の資料と共に廊下を歩く彼女の姿に、心配して注意するのはディーノだけではない。

「まぁ、考えておきます」
「そうしろよ。紅が怪我すると煩いのが多いからな。それより―――」

そこで一旦言葉を切り、彼は歩いていた足を止めた。
それに倣うように足を止めると、彼女は首を傾げてディーノを見上げる。

「敬語」
「…でも…ボスですし…」
「呼び方」
「……………」

ボスになってからと言うもの、何度この遣り取りをしただろうか。
何度繰り返しても、彼女は自分の事を「ディーノ」と呼ばなくなった。
ボスの候補として学んでいた頃は名前を呼び、兄のように慕ってくれていたと言うのに。
呼び名が変わり、畏まったその話し方が、彼女との距離を広げているように思えてならない。

「あのなー…俺がいいって言ってんだから、別に気にすることねーだろ」

金髪を掻き揚げながら、溜め息と共にそう言うディーノ。
確かに、自分でも頑固だとは思う。
数も覚えていないくらいに何度も言われているのだから、素直に首を縦に振ってしまえばいいのだ。
しかし―――

「誓い、だから…」

再び歩き出した彼の背中に向けて、そう呟く。
違える事の出来ない約束があった。
自身への誓いでもあり、この場に居る為の保険でもある。

「何か言ったか?」
「…何も」

声が小さすぎたのだろう。
何かを紡いだということだけしか分からなかったらしく、彼は首だけを振り向かせた。
軽く首を横に振ってそれを否定し、彼の隣に並ぶ。
それ以上何も話さずに歩く彼を見上げ、紅は唇を開く。
だが、何を話していいのかも話すべきなのかも分からず、結局その口を閉ざしてしまった。
「ディーノ」と、一言そう呼べば、彼の笑顔が見られると分かっているのに…それを許せない。
心中の葛藤など知らぬとばかりに、時間だけが無情に流れていった。











「ディーノ、新しくファミリーに入った紅だ。年もそんなに離れていないからな、色々と教えてやってくれ」

そう言って9代目の隣に立つ紅を紹介されたのは、もう随分前の事だ。
すでに自分が10代目だという自覚のあった彼は、新人の教育を任され心中で拳を握っていた。

「マフィアに関しての知識はありますけれど…ここの事は何一つ知りません。よろしくお願いします」

言い終わると姿勢を正して腰を折る彼女に、その行動を見て暫し動きを止めてしまったのを覚えている。
そんな自分に、9代目は面白そうに笑って「日本人なんだ」と教えてくれた。

「何か不便な事とかはないか?」
「特には何も…。十分です、ありがとう」

疑問を抱いたのは、彼女と出会って三日目。

―――…一度も、笑わない。

ありがとう、と言いながら、彼女は薄く微笑む。
だが、その表情は悲しさを押し殺しているようにしか見えなかった。

「元居たファミリーが、何者かに全員殺されたらしい」

実しやかに噂されるそれは、ごく自然にディーノの耳にも入ってきた。
噂の中に、誰が、と言う単語はなかったが、その全滅したファミリーが紅の居た所だとすれば―――















長い沈黙の中、ディーノは紅と出会った頃の事を思い出していた。
あれから気持ちの整理も付いたのか、彼女はちゃんと笑うようになっている。

「…別に、お前が俺をボスだって思ってなくても…放り出したりはしないぜ」
「え…?」

俯いていた視線を持ち上げる紅。
飴色の目に自分が映りこむのを見て、ディーノは初めて自分の紡ぎだした言葉を自覚した。
まるで水道から水が零れ落ちるような、そんな自然の現象のように零れ落ちた自分の言葉。
驚きは、目の前の彼女よりも大きかったかもしれない。

「今まで通りでいいんだ。俺達は紅を一人にしたりしないからな」

紡ぎ続ける言葉が正しいのかなど、誰にも分からない。
それでも、見開かれたその目が揺れるのを見て、間違ってはいないと確信する。

あぁ…彼女は、失う事に臆病になっていたのか。

自分の口が勝手に話すのを聞きながら、彼は漸くその答えにたどり着いた。
ボスが変われば、少なからず変化はある。

「恐かったんだろ?周りに合わせられなくて、捨てられる………一人になることが」

ピンと張り詰めた糸が切れるのは簡単だった。
バサバサッと資料が彼女の腕から零れ落ちる。
便乗するように、その飴色の目は雫を頬に伝わせた。
それを隠すように紅は自身の手で顔を覆ってしまう。
声もなく肩を震わせる彼女を見て、ディーノは抱えていたそれを片腕に持ち替える。
そして、空いた手でその柔らかな髪を撫でた。

「悪かったな、気付かずに…無理ばっかり言っちまって」

苦笑気味にそう言えば、彼女は顔を上げずに首を振る。
彼が謝る事ではない、そう言いたいのに、口を開けば別の声が漏れてしまいそうだった。

「あー…泣くなって。俺が泣かせてるみたいだろ?こんな所見られたら、あいつらに何て言われるか…」

困ったように頭を掻くと、躊躇いを振り払うように一息に彼女の頭を引き寄せた。
身長の差から、額を肩辺りに押し当てられた彼女は驚いたように息を呑む。

「お前は大事な妹分だからな。安心して、寄りかかってろよ」

ポンポンと撫でられ、嵐に飲まれそうだった心が落ち着いていくのを感じる。
紅はそっと目を伏せ、彼の肩に額を預けた。
そして、小さく唇を動かす。

「ありがとう、ディーノ…」

久しぶりに呼ばれた名前に破顔する彼の表情は、生憎彼女の視界に収まる事はなかった。

06.12.07