黒揚羽
Target --032
「なぁ、リボーン。一つ気になってたんだけどさ…」
銭湯から帰ってきて、ツナは自室の中でリボーンにそう声を掛けた。
ディーノはまだ戻っていない。
紅の家に泊まるかと尋ねると、彼は「話を聞きたいだろ?」と笑った。
自分が彼の話を聞いてみたいと思ったのは確かだ。
風呂だけ借りたらこっちに戻ると言って、紅と共に迎えの車で彼女のマンションへと向かった。
「何だ?」
「ディーノさんって、部下の前なら運動能力は落ちないんだよな?」
「そーだぞ」
「なら…紅は?」
それが気になったのは、銭湯の湯でほっと一息ついた時だった。
風呂で鞭を使えなかったのは、彼女が居なかった所為だと言ってもおかしくはない。
でも、椅子から立ち上がるなり転んだあの時には、彼の傍には紅の存在が確かにあったのだ。
部下の前であのような失態をすると言うならば、リボーンの話がどこまで本当なのか…。
「…その辺は、本人に聞け。明日も学校はあるんだろ」
「…本人って…ディーノさんじゃなくて、紅に?」
「ディーノは無意識だからな。気付いてないかもしれないぞ」
それならば、夕食の席でボス体質である事を否定したことも頷ける。
ツナが頷いた丁度その時、玄関のドアが開く音がして階下から奈々の声が聞こえてきた。
「ツナ。ディーノ君が帰ったわよー」
「今行く!」
ドアを開いてそう答えると、一旦この話は終わりだとばかりに一度リボーンを振り向き、そして下に向かう。
結局、登校中に誘拐されるなど色々あったツナは山本、獄寺と共に学校を休んでしまった。
何でも、ツナのファミリーを確かめたいが為のディーノの一芝居だったらしい。
それにリボーンが加わり、話が少しややこしくなって…実在するヤクザにまで押しかける結果となっただけ。
普通に生活していれば、サラリと語れるような内容ではないが…ツナ自身もこんな日常に慣れてきてしまっている。
家に帰る山本と獄寺を送り出すと、彼は一人自室に戻り溜め息を吐き出した。
「結局紅に聞けなかったなぁ…また明日か…」
「何が?」
「!?!?」
独り言に返事が返ってくれば、誰だって驚くだろう。
況してや、それが自分しか居るはずがないと思い込んでいる空間ならなおさら。
声の主は、窓際に腰を下ろして軽く手を振っていた。
「お邪魔してるよ、ツナ」
「え、あ、紅…?」
「他の人に見える?」
どうやら予想外に驚かせてしまったのだと気付くと、彼女は苦笑交じりに答えた。
見えないと首を振る彼に、紅は「それなら良かったわ」と笑う。
彼女のその笑顔は、平静を取り戻させることに抜群の効果を表した。
「どうして、ここに…」
「センセに、ツナが聞きたい事があるって電話を貰ったの。だから、学校から直接来たのよ」
よく見れば、彼女は制服に身を包んでいる。
と言っても上は自分達のようにブレザーではなく…学ランだ。
彼女がそれを纏い始めた一日目には、それはもう驚いた物だが…今では慣れてしまっている。
人間の適応力を改めて感じさせられた。
「ディーノとの関係でしょう?聞きたい事は」
「分かってるの?」
「それ以外にないと思ったのよね。あのセンセの説明だと、よほどの馬鹿じゃない限りは違和感を覚えるもの」
そのよほどの馬鹿に入らなくてよかったと、ツナは心底思う。
そして、答えを待つように口を閉ざした。
座るのを忘れていた彼に、紅はふっと笑みを零して「とりあえず座ったら?」と首を傾げてみる。
自分の状況を思い出した彼は、少し頬を赤らめてその場に正座した。
妙に緊張している彼にクスクスと笑い、紅は窓の方へと視線を向ける。
「ディーノとは、彼がボスになる前からの付き合いなの」
ゆっくりと、焦る事無く紅は話し出した。
「私、元々は別のマフィアに所属していて…その話は、省かせてもらうわね。
そして訳あって、ボンゴレからの紹介でキャバッローネにお世話になる事になった」
「ボンゴレから?」
「そうよ。私が入ったのは、ディーノの前のボス…9代目の時よ」
彼女は頬に掛かった髪を後ろへと払う。
その流れで首元を押さえ、それを首筋に沿わせるように落としていき、その付け根を掴むように止めた。
丁度、彼女の掌の下にはいつかに見せてもらったあの黒揚羽がある。
「彼とはそれからの付き合いで…まぁ、今を見てもらえば分かると思うけど、仲が良かったのよ。
仲違いしたわけでもないのに、根本から考えを改めるなんて…無理でしょ?だから、今でも私は妹分なの」
疑問は解けたかしら?と紅は微笑む。
彼女の笑みは、優しいようで…それで居て、少し悲しそうだった。
妹分であることに不満を抱いているとは思わない。
だが、彼女自身の中では部下として認められたいと言う気持ちもあるのだろう。
それが、僅かながら垣間見えている…きっと、そうだ。
「寂しいの?」
ふと、そんな言葉が口から零れていた。
自分でも何故そんな事を言ったのかわからない。
ただ、気がつけばそんな事を言ってしまっていた。
彼女は自分の言葉に驚いたように目を見開く。
そして、その表情を苦笑に戻し、ゆっくりと口を開いた。
三日月を見上げて紅はグラスを揺らした。
中で揺れる琥珀色のそれは、お茶などと言う可愛らしい物ではない。
乱雑に砕かれた透明の氷が踊り、カランとグラスにぶつかった。
風呂上りに袖を通した大きめのYシャツの胸元は大きく開かれていて、鎖骨の上の黒揚羽が顔を覗かせている。
ドライヤーで乾かしていない髪の上に乗せた白いタオルを放ったまま、引き寄せた膝に片腕を乗せる。
その腕の先にあるグラスを右へと傾ければ、再びカランと氷が音を立てた。
「寂しい、か…」
飲み始めた頃は真上にあった月も、今では少し傾いてしまっている。
何時くらいなんだろう、と考えるが、すぐにやめた。
どうせ、時間を知ったところで暫くは寝れない。
「そんな事を思ったことも…ないとは言えないわね…」
『大丈夫よ。寂しくても、彼が大事にしてくれてるって分かってるから』
ツナにはそう答えた。
でも、そう感じた事は何度もあった事は事実。
部下だと認めてもらえないのだろうかと、歯がゆく思ったこともあった。
「アゲハは部下。紅は妹」
その境界線は曖昧で、彼が自分と二人だけの時にボスらしくあったのは、本当に数えるほどだ。
片手で足りるかもしれないな…そう思うと、何だかやりきれなくて数えるのをやめる。
その容姿には似合わないほど色香溢れる足を組みなおし、紅は窓ガラスに凭れた。
思い出すのは、ディーノがボスになってからの事。
「眠れないのか?」
不意に、背後から掛かった声。
だが、紅は驚く事も振り向く事もなかった。
その声の主…暁斗は気配も足音も消さないように近づいてきていたから。
「ウィスキーまで持ち出して…明日、学校だろ?」
「このくらいでダウンしないわ」
「どうだかな。その辺にしておけよ、成長期の身体には悪い」
「ねぇ、暁斗。あの日の事…覚えてる?」
彼の言葉に対する返事ではなく、紅はそう言い出した。
彼女は琥珀色のそれを一口運び、その答えを待つ。
「…黒アゲハ誕生事件、か?」
口角を持ち上げ、彼はそう答えた。
そう言えば、そんな風に呼ばれていたな…紅は、そう思い出す。
ファミリーの連中が面白おかしく、そう呼んでいたのだ。
キャバッローネの中でその『黒アゲハ誕生事件』を知らない者はいない。
「もう…傷が疼く事はないか?」
「ええ」
答えると、彼女はウィスキーのボトルを彼に差し出す。
その時になって、彼女は初めて振り向いた。
何も言わず、暁斗はそれを受け取ってボトルからそのままウィスキーを仰ぐ。
「明日…じゃない、今日だな。起きなかったら起こさないぞ」
「その時は自力で頑張るわ」
そう笑うと、彼女は暁斗から窓の外へと視線を戻す。
見上げた三日月が、また少し傾いたような気がした。
06.12.03