黒揚羽
Target --025
平和。そう、いたって平和だ。
ふぁ、と大きな欠伸を手で隠し、目じりに溜まった涙を指先で拭う。
ふと視線を向かいのソファーに向ければ、猫のように丸くなった少女。
先日渡した学ランを毛布代わりに身体に乗せて肌寒さを凌いでいた。
―――ハードカバーを1冊読みきってしまった。
突然応接室の扉を叩いた彼女は、開口一番にそう言った。
「と言うわけですから、寝かせてください。教室では寝れませんので。それに…雲雀さんなら大丈夫だと思いますし」
何が大丈夫だ。
普通ならば感じるところだ。
しかし、彼はその言葉に何か引っかかりを感じた。
何か別の意味が含まれているような…そんな、何かを。
そうして、止める間もなくソファーに丸くなった彼女は、ものの5分で眠りに落ちた。
そんな遣り取りからすでに2時間。
相変わらず規則正しく上下する肩を見れば、死んでいるわけではない事は確か。
先日彼女が纏めた校則違反の生徒一覧表を眺める視界の端で彼女を捕らえ、よく寝るものだと思う。
数十分に一度、ピクリと肩を揺らすが、一向に起きる気配は無い。
真面目で通している彼女が態々授業をサボって寝に来ると言うだけでも珍しかった。
世渡りの上手い彼女の事だ、「体調が…」などと上手く言って教室を抜けてきたのだろう。
すでに片付けた覚えのある生徒の名前の隣にチェックをつけながら、彼はそんな事を考えていた。
そんな時、ふと紅が目を覚ます。
ぱちりと音がしそうなほどに勢いよく目を開くと同時に、彼女はむくりと起き上がった。
下敷きになっていた部分の髪を整えながら学ランを羽織る。
寝起きの悪い彼女にしては、驚くほどの寝起きの良さだ。
唐突な彼女の行動に軽く目を見開きながら、雲雀は完全にその目に紅を映す。
彼女がある程度身なりを整え終えた所で、応接室の扉が勢いよく開かれた。
「委員長!校舎内に妙な男が…!」
半ばもつれるようにして飛び込んできたのは、所々制服の裂けた男子生徒。
その風貌と腕の腕章から、風紀委員の一人であることがわかる。
立派なリーゼントからは筋になった髪が落ち、セットがかなり乱れていた。
なるほど、彼女は近づいてくる気配を悟って、自ら目を覚ましたらしい。
「ふぅん…一人?」
「はい。見た目は………二十台前半。黒っぽい上下に黒髪」
どこかで聞いたような風貌。
そんな事を思ったが、黒髪の男性と言えば日本という国では、石を投げれば当たるくらいによくある髪色だ。
「行って来るよ」
「お供します?」
「要らない」
「分かりました。では、お気をつけて」
そう言って送り出そうとすれば「誰に向かっていっているんだ?」とでも言いたげな視線が振り向く。
わざわざ振り向かなくても…と思いながら、紅は笑って誤魔化した。
パタンと扉が閉じられると、彼女は傷だらけの彼に向き直る。
「傷自体は小さい物ばかりね」
「あ、はい。何か、男が避ける所為で俺達自身がやりあった感じで…。くそ…!あのタトゥーの男…!」
男の頬に消毒液をつけた脱脂綿を当てていた紅の手がピタリと止まる。
不自然に動きを止める彼女に、委員の彼は首を傾げた。
「どうかしました?」
「タトゥー?」
「はい。こう…右顎から首にかけて…そんなに大きくありませんでしたけど」
「…それって、炎のようなタトゥー?」
指でその形を示すように動かせば、彼は少し悩んだ後こくりと頷く。
その拍子に、リーゼントからまた一筋髪の毛が零れ落ちた。
彼の返答を聞くなり、紅は口元を引きつらせて脱脂綿を摘んでいたピンセットを取り落とす。
「手当て!自分で出来るわね!?」
「は、はいぃ!!」
その形相は、出来ませんと答えることを許している物ではない。
紅は彼に救急箱を押し付けると、勢いよく立ち上がってそのまま扉の方へと駆け出す。
だが、開いた後一度飛び出し…またすぐに戻ってきた。
「今はどこに居るの!?」
「裏庭です!」
まるで軍隊のように即答する。
その答えを聞くと、紅は今度こそ応接室を飛び出していく。
残された風紀委員は、触った事もはじめての救急箱を手に暫し動く事無くその場に座り込んでいた。
廊下を走っていた紅は、窓ガラスの向こうに黒い背中を捕らえる。
それがいつも見慣れている雲雀のものだと気付くや否や、彼女は窓をガラッと開けて口を開いた。
「雲雀さん待ってください!!」
今にも飛び出しそうな勢いでそう言うと、窓枠に手をかけてひょいとそれを乗り越えてしまう。
自分の胸まである高さのそれをいとも簡単に超えてしまうあたり、運動神経のよさを感じずにはいられない。
だが、彼女の声も空しく、その背中は鉛色に光るそれを手に駆け出してしまった。
彼の向こうに見えた人影に、紅は自分の予感が的中した事を悟る。
「駄目です!その人は…!」
昨日今日と天候がよかった事が幸いし、中庭の土は乾ききっている。
上靴であると言う認識は、当の昔に吹き飛んでしまっていた。
障害物など物ともせずに、彼女は一直線に彼らを目指す。
20メートル、15メートル、10メートル―――
「雲雀さん、ストップ!!」
この学校内で、背後から雲雀に飛びつくような人間は恐らく彼女一人だ。
少なくとも、他の人間がやれば次の瞬間には地面と仲良くなっているだろう。
無論それに関しては彼女も例外ではなく、止めたお蔭で彼のトンファーの矛先は彼女に変わる。
咄嗟に上体を反らす事でそれを避け、それでも彼女は飛びついた彼の腕は離さない。
「お願いです、少しだけ止まってください」
ね、と念押しする様は、可愛らしく…と言うよりは必死だ。
腕を掴まれていては存分に動く事が出来ない。
そう判断した彼は、渋々ながらも一歩引いた。
それが返事だと理解し、紅は彼の腕を放して、前に倒れたままの人に駆け寄る。
うつ伏せの彼をごろりと転がせば、そこには見慣れた顔があった。
「やっぱり暁斗!何でこんな所に…」
すでに何撃か食らった後なのか、目を回しているのは間違うはずも無く暁斗。
一ヶ月ほど前にイタリアからの写真つきメールで教えてくれたタトゥーも、土で薄汚れた首に刻まれている。
「…また知り合い?」
「あー…はい。………前に話した、父です」
どうせならばもう少しまともな場所で紹介したかった。
今更だが、そんな事を思う紅。
ここに転がしておくわけにも行かないので、とりあえず委員の人間を呼んで応接室に運んでくれるよう手配した。
運ばれていく暁斗の傍らについて歩く紅の隣には、すでにトンファーをしまっている雲雀の姿もある。
「君の父親って言うから結構期待してたんだけど…」
「外れだったでしょう?彼、頭脳派ですから」
戦闘の方は…と語尾を濁す。
やって出来ないほど運動神経が悪いとは言わないが、雲雀の相手になるには不足がありすぎるだろう。
とんだ期待はずれだと肩を竦める彼に、紅は苦笑した。
一体、この地域で彼を満足させる事のできる人間が何人くらい居るのだろう。
ディーノならば楽しめるだろうが…彼はイタリアだ。
「会うこともまず無いしね…」
「何?」
「いいえ、私の師匠ならきっと雲雀さんを満足させられるんだろうなって」
「強いの?」
その問いかけに、紅はきょとんと目を瞬かせる。
だが、次の瞬間には挑発めいた…自信に満ちた表情で口角を持ち上げた。
「自慢の師匠です」
「それなら会ってみたいね」
「うーん…ちょっと厳しいですね…彼、忙しいですから」
何を隠そう、彼は一マフィアを率いるボスだ。
決して暇な存在ではないが…きっと、会いたいと一声かければ何とか都合をつけて日本に来てくれるだろう。
彼は、そう言う人だ。
それが分かっているからこそ、紅は間違っても会いたいなどとは口に出さない。
ソファーの上で伸びている暁斗の頬に絆創膏を貼りながら、彼はどうしているのだろうかと思った。
メールの遣り取りと言えば、ダントツで目の前の彼が一番多い。
次いでディーノとなるのだが…ここ一週間、彼からの連絡は無い。
きっと忙しいのだろうと思いこちらからも連絡しなかったが…。
「思ったより忙しくないのかしら…?」
ファミリーの中でも位置は割と高いはずの暁斗がここに居る。
その事実から、彼女はそう疑問を抱いた。
まぁ、その辺は彼が起きてからゆっくり尋ねるとしよう。
そう心に決めて、早く起きてという意味も込め、先程貼った絆創膏の上をぺしりと叩いた。
06.11.01