黒揚羽
Target --020
雲ひとつ無い快晴、とまでは行かずとも、時折控えめな風の吹く爽やかな秋晴れ。
まさに体育祭日和といったその日、体育祭への余儀なくされている紅も今この時ばかりは制服ではなくジャージ姿。
セミロングの髪も普段のように下ろしておらず、低い位置で一つに束ねられていた。
そんな姿で応接室のソファーに座っていると言うのは何とも奇妙な光景。
「それにしても…本当に参加するつもりが無いんですね」
紅は教室に置いておくつもりの無い鞄を自分の隣に置き、声を掛ける。
この部屋の主、雲雀は彼女に一瞥くれると再び視線を手元に戻した。
その格好はと言えばいつもと何も変わらない。
相変わらず黒い学ランを肩に引っ掛け、左腕には風紀の腕章。
グラウンドに整列している生徒も、そして教師までもが活動的な服装に身を包んでいる。
そんな時でさえ、彼の格好は何一つ変わりないものだった。
「まぁ、らしいと言えばらしいですね」
そう言って、紅は肩を竦める。
頬に掛かってきた髪をヘアピンで留め終えると、漸くその腰を上げた。
先程からマイク越しの校長の声がここまで届いている。
今それが終わったらしく、それは進行役の教師の声に変わった。
あんな暑い中でグラウンドに立っているのは御免だと、開会式に参加しない紅。
非常識だが本来参加もしたくない彼女なのだから、こうして着替えて参加の意思があるだけでもマシと言うものだ。
「さて、と。そろそろ行こうかな」
面倒な開会式も終わりそうだし、と彼女は窓に近づいていく。
カララ…とそれを開けば、グラウンドが一望できた。
生徒の列がゾロゾロと移動しているのが見える。
「じゃあ、行って来ますね、雲雀さん」
窓枠に腰掛けた状態で彼女は首だけを振り向かせてそう言った。
笑顔と共に発せられるその声に誘われるように視線をそちらに向けた雲雀。
彼の眼に映ったのは、今まさに下に消えようとしている紅の背中だった。
そして、その自分よりも一回りは小さい背中は次の瞬間には消えているではないか。
雲雀は手に持っていた何かの名簿を自分の脇へと置き、立ち上がる。
その時にふと目に入ったものに軽く息を吐き出した。
それを持ち上げ、焦るでもなくゆっくりと開きっぱなしの窓に歩み寄る。
「紅」
窓から下を覗くように上半身を出してその名を呼べば、下に居た彼女が声に反応して見上げる。
その拍子に揺れる彼女の明るい茶髪は、人工物には出せない自然な色で綺麗だった。
彼女は手に持った鞭をくるくると束ねながら、自分を呼んだ理由を問うように首を傾げる。
その身一つで1階ではない応接室から飛び降りたのかと思ったが、どうやら鞭を使って降りたらしい。
それに納得すると、雲雀は手に持っていたそれを彼女に見えるように窓の外に突き出した。
「いらないの?」
「………あ!」
初めはそれが何なのかわからなかったようだが、理解するなり焦ったような声を発する。
彼女は自身の姿を見下ろし、あるべきものが無い事に気付いた。
「すみません。落としてください」
紅の答えなどわかりきっていたのか、元々そうするつもりだったのか。
それは雲雀の手を離れてふわりと重力に従う。
時折風に揺られて進路を変更するも、さほど変わりなく紅の伸ばしたての中に舞い降りた。
Aと言う文字の書かれたビブス。
ジャージにTシャツだけならまだしも、このビブスをつけると言うのは紅には許せなかった。
普段から服装に気を使っている彼女だからこそ、余計に。
実年齢を考えれば普段の制服も十分許し難い…そればかりは避けられないのだから仕方ない。
時間ギリギリまでビブスを付けたくなかった彼女は、どうやら応接室のテーブルの上にそれを置き忘れてきていたらしい。
「…嫌なんだけどなぁ」
仕方ない、と紅は溜め息混じりにそれに腕を通した。
紅は折れた襟口を整えると、もう部屋の中に戻っただろうと思いながらも応接室を見上げる。
だが、予想に反して彼はまだそこに居た。
「もし気が向いたら雲雀さんも参加しましょうね」
「…ま、向かないと思うよ」
「ええ。言ってみただけですから」
そう言って紅は笑う。
そして、何かの競技の合図らしい「パン」と言う音に、すべきことを思い出す。
見上げていた視線をグラウンドの方へと向け、準備運動がてら軽く走り出した。
その軽やかな足取りを眺めていた雲雀だが、最後まで見送る事無く部屋の中に戻っていく。
紅は理系の道を進んだが、運動が出来ないわけではない。
クラスメイトに羨ましがられるだけの素質は十二分にあった。
進学すれば盛んに部活勧誘され、その度に何かしら理由をつけて断る。
前の学生時代はそうして過ごした。
「位置について」
そんな声と共に、並んだ生徒が一斉に集中する。
パンと言う炸裂音と共に、それに慣れている足は動き出した。
この風を切る感覚が何とも言えず快感で、紅は口角が持ち上がることを自覚する。
一度もペースを乱す事無く、かつ他のメンバーに追いつかれること無く。
紅はトップでゴールテープを切った。
記録を取りにきた彼から離れると、紅を待っていたのはクラスメイトの歓声だ。
凄い、だの速いだのとあちらこちらで同時に言われ、正直何を言ってくれているのか聞き取るのが難しい。
紅が愛想笑いを浮かべれば、その声は更に大きくなった。
「紅、速ーい!!」
「本当。見た目文化系なのに運動も出来るなんてね」
その声のした方を向けば、クラスでも仲の良い二人が紅のペットボトルを持ってそこに居た。
一人は京子、もう一人は花だ。
二人が何の競技に出るのかは覚えていないが、今こうしてゆっくりしているのだからまだ先なのだろう。
京子は手に持ったペットボトルを「お疲れ様」と言って紅に手渡す。
自分のペットボトルを受け取り、紅は頷いた。
「男子は山本、女子は紅がダントツみたいね」
「そうなの?山本は確かに速いけど…」
花の言葉に、「私、そんなダントツになるほどだっけ?」と首を傾げる。
久々の高揚感が心地よくて、つい本気で走ってしまった事は確かだ。
そう言えば、2位の女子との時間差はかなりあった…気がしないでもない。
よく覚えていない、と言うのが本当のところ。
「何にせよ、沢田の分を二人でカバーしてる感じよね」
そう言って花は、向こうのトラックでつい今しがたゴールしたメンバーを見る。
丁度、ホッピングから降りたツナが6番の旗を持つ教師に誘導されているところだった。
因みに競技人数は6人。
つまりは最下位…ビリと言うことだ。
「あー…そんな事ないよ。人間誰しも得意なものがあれば不得意なものがあるものだし」
「そうだよ、花!ツナ君は本気を出せば凄く速いんだから!」
紅の言葉に頷き、力強くそう言い切る京子。
彼女を思うツナが聞けば涙しそうな台詞だ。
彼からの思いは伝わっていないものの、彼女のツナに対する印象は悪くは無い。
悔やむべきは―――
「(想いが空回りしてることね…)」
京子のツナに対する気持ちと、彼の気持ちとでは感情の種類が違う。
これからの成長に期待…としか言いようが無いのが現状だ。
「それにしても…体調不良…かな」
遠くを歩くツナを見ていた紅はそう呟いた。
覚束ない足取りのところを見れば、彼の身体に何らかの異常をきたしている事は明白だ。
どうしようかと悩むが、残念ながら薬系は全て鞄の中。
そしてその鞄は今現在雲雀と共に応接室に居る。
「…昼休みに持ってこよう」
紅がそう決めるのと、彼女の次の競技の案内がマイクから聞こえたのはほぼ同時だった。
06.10.05