黒揚羽
Target  --019

成績だけは上位をキープすると言う事を前提に、気の向くままに授業に参加する紅。
それだけを聞けば、優等生だからって優遇されている、なんて声が聞こえそうだ。
しかし、風紀委員と言うあの不良集団の中でせっせと働く彼女にそんな声は聞こえては来ない。
影では何を言われていてもおかしくは無いが、少なくとも本人の耳には入らなかった。
それもこれも、紅には一目置いている風紀委員らの陰の努力の賜物だ。


最近は、学校行事の中でも大きさでは上位に入る体育祭を控えている為、紅は毎日応接室で放課後を過ごした。
学校行事といえば、進行などの役員には委員会であたるものだ。
風紀委員には大きな役割と言ったものはなかったが、その代わりに紅の能力を買って書類整理が回ってきている。
今日も今日とて革張りのソファーに腰掛けて藁半紙を見下ろしていた紅が、不意に顔を上げた。

「そう言えば…雲雀さん、体育祭に参加するんですか?」
「紅はどう思うの?」

窓際に腰掛けた彼の黒い学ランが揺れる。
風に乗ったそれが視界の端でヒラリヒラリと舞うのを気にしながらも、紅は彼の質問の答えを探した。

普通であれば生徒の参加は当然だ。
たとえ、運動神経が切れているのではと思うような運動音痴であったとしても、参加しないと言う選択肢は無い。
どんなに嫌がろうが、授業と同じく強制なのだ。

だが…彼、雲雀の場合はまず『普通』が通用しない。
授業中であれいつであれ、平気で学校内を闊歩するし、学年さえ不確かだ。
黙認する教師陣も教師陣だとは思うが、恐怖の前に人間は無力。

「やっぱり一番人間を動かす感情よね…」
「…は?」

考えがあらぬ方向に進んでいた。
思わず呟いた言葉は彼の質問への答えからはかけ離れたもので、怪訝な表情も当然の反応だろう。
彼の声に視線を上げた紅は、暫し悩んだ後「そう言えば質問の答えを探して居たんだった」と苦笑した。
自分の思考は、随分とまぁ長い旅をしてくれたものだ。

「…えっと…雲雀さんが参加するか、ですよね。私はしないと思いますよ。
汗を流して青春を謳歌する雲雀さんなんて想像出来ませんし」

自分で言っていて何だが、考えてみれば随分と怖い光景だ。
この、目の前で窓枠に腰掛けて規定外の学ランを肩に羽織った人物に体操服を着せる時点で頭がショート寸前。
何とかその姿を想像できたとしても、今度はそのままの彼にグラウンドを走ってもらうという大きな難関が待ち受けている。

「…駄目だ。絶対無理。って言うか嫌だ。想像したくない」
「………喧嘩売ってる?」
「滅相もありません」

頭がそれ以上の想像を放棄した。
学校規定のブレザーを着せるのも難しいというのに、体操服は無謀だったと自分でも思う。
酷使した思考に飴を差し上げるべく、再び少し黄ばみがかった紙に視線を落とした。
彼のとんでもない姿を想像するよりも、面倒な書類を片付ける方が自分にとっては楽だ。

「紅は参加するつもりなの?」
「…したくはありませんけれど」

と言うことは、参加したくはないが、しなければならないと言う事だろう。
動くのが嫌いなはずは無いのだから、彼女の場合はただ面倒なだけだ。
元々成績を上位にキープする事さえ守れば授業や行事の参加は自由。
そんな彼女が参加を余儀なくされている理由と言って浮かぶ事など、数えるほどしかない。

「クラスメイトに頼み込まれまして」

簡略な説明だ。
何をなどという説明は一切無いが、雲雀はその説明で満足したらしい。
チラリと彼女を一瞥した後、彼の視線はグラウンドを走る野球部に向けられた。

「この間の体育、短距離走だったんですよ。偶然それに参加してて…結構なタイムだったらしいんですよね」

無論、この場合は悪い意味での『結構』ではない。
こんな事なら手を抜いて置けばよかったと今更ながら肩を落とす。
クラスのほぼ全員から「頼むから、体育祭で走ってくれ」と言われれば引き受けざるを得ない。
普段授業にあまり参加しないにも拘らず、クラスメイトとして扱ってくれる彼らへの感謝だと思っておくことにしよう。

「タイムは?」
「はい?」
「短距離走」
「えっと…………何か、先生まで驚いてたことだけは分かってるんですけど…結局、聞くのを忘れてますね」

タイムと言われてその数字を思い出そうとするが、いっこうに浮かぶ事のない数字の羅列。
暫く悩んだ後、紅は軽く首を捻ってそう言うと苦笑いを浮かべた。
何とも間抜けな話だが、彼女自身が短距離走の記録に無関心なのだから仕方が無い。
一緒に走った子が遥か後にゴールした事、タイムを見て教師までもが固まった事。
この二つだけは、確かだ。
呆れたような雲雀の視線を真っ向から受ける事を拒む視線が、不自然に空を彷徨う。
そして、話題を逸らすように「そう言えば」と声を上げた。

「親友は凄く足が速かったんですよ。ただ、致命的に持久力が無くて持久走になると亀並みでしたけど…」

そう言いながら、彼女はハッと気付いた。
これでは話題を逸らすどころか、同じ話題が続いているではないか。
内心冷や汗をかきながらも紅は愛想笑いを浮かべた。
言っている自分が気付いたのだから、頭の良い雲雀が気付かないはずは無いだろう。
何とも言えない沈黙に包まれた室内。
普段は視線を合わせて長く言葉を交わすことは少ないだけに、何とも微妙な空間のように思えた。

「…その親友って何歳?」
「今年で24歳ですね」
「……………随分と年上の親友だね」
「!」

何だか今日は墓穴ばかり掘っているような気がする。
いっそのことその穴に入らせてもらいたいものだ。

「本当に、君は謎ばっかりだ」
「…いつか、話します」

そう答えると、紅は戸締りのために彼が座る窓とは別のそれへと歩み寄る。
秋の気配を感じる風を頬に受け、そっと目を細めた。
ポロリと、隠している…隠したいはずの事実を口に出してしまうのは、それだけ自分が気を許していると言う事だ。
それは危険であり、同時に心の拠り所を見つけたと言う達成感のようなものを感じる。
一生懸命に気を張り詰めて生きてきた中で初めて、飾る必要の無い場所を見つけた。
そんな想いが自分の中に芽吹いているのを感じたが、紅がそれを口に出す事はない。
まるで良き先輩を慕う後輩のような行動の中にそれを押し隠した。

「それで、親友のタイムくらいは覚えてるの?」

不意に掛けられた声に、紅は窓の施錠を行いながら微笑んだ。
自分の心を揺るがすような事を言ったかと思えば、次には驚くほどにあっさりと引いていく。
まるで引き潮のような彼を引き止めたいと感じるのは気のせいではないのだろう。

「彼女は速かったですよ。男子とも肩を並べられるくらいに。50メートルを5秒…でした、確か」

思い出すように懐かしむように。
紅は窓の桟に手を添えたままそう言った。

「確か、イタリアから帰ったって言ってたね。じゃあ、向こうの知り合い?」
「…いいえ、こっちですよ。でも…もう、会えませんけれど」

それ以上は言わなかった。
でも、雲雀はその言外に隠されたものに気付いたのか、曖昧なままであったが追求しない。
彼女の目は悲しげに伏せられていて、聞くことなど出来なかったということもあるが。

「さて、と。雲雀さん。閉めるんで出てください」

手早く戸締りを済ませてしまうと、未だ窓枠に腰掛けたままだった彼を部屋の中心の方へと押し促す。
彼にこんな事をできるのは、この学校内では彼女だけだろう。
ひょっとすればこの世界では…と言う範囲にまでなるかもしれないが、それは流石に大げさすぎだ。

「明日は朝8時にここに来てよ」
「また見回りでも行くんですか?雲雀さんも暇ですね」
「…言うね、君」
「これでも度胸は人一倍と自負していますから」

最後の窓の鍵をカシャンと閉めると、テーブルの上に乗っていた部屋の鍵を取る。
自分の鞄を肩に引っ掛けると、すでにドアのところに居た雲雀にそれを投げた。
こちらを見る事無く受ける彼を、紅もまた視線を向ける事無く、最終確認とばかりに部屋を見回す。

「閉じ込めるよ」
「あぁ、今出ます」

部下と上司でもない。
先輩と後輩でもない。
微妙な関係は、不思議に居心地の悪いものではなかった。
寧ろ真綿で包まれるような奇妙な心地よささえ感じてしまう。
これはまだ恋愛感情ではないけれど、いずれはそう変化してもおかしくは無いなと紅は思った。

そんな事を考えている自分を自嘲すると、よっ、と鞄を掛けなおす。
そして彼の短い我慢の糸が切れてしまう前に、応接室を後にした。

06.10.02