黒揚羽
Target  --018

トントンと軽快なリズムを叩き出す足。
最後まで階段を上りきった紅は、ゆっくりとそのドアノブに手を伸ばした。
どれだけ気をつけて押し開けても「ギィ」と耳障りな音を立てる。
それに気付いた屋上の人間がこちらへと視線を向けた。
大小4セットの視線を集わせた紅は、その表情に余裕の笑みを浮かべて見せる。

「皆さん満身創痍ね」

男前が台無しだ、とまでは行かないにしても、それぞれ傷を負っているのがよくわかる。
彼女がそう呟くと同時に、先程の一件での苛立ちもあった獄寺が立ち上がった。
彼が近づくまでも無く、紅は足を止める事無くスタスタと屋上を横切って彼らに近づいてくる。
苛立っていると言うか、怒っていると言うか…兎に角、関わりたくないと思ってしまうような様子の獄寺。
彼に怯む事無く歩いてくる彼女に、寧ろ彼の方が一瞬動きを忘れる。
だが、紅が静止する彼を覗き込もうとした所で、その強張りが解けた。
我に返った彼の手が紅の制服の胸倉を掴みあげ―――

「てっめー!さっきはよく、も……」

掴みあげて怒鳴る予定だった。
現に、彼の言葉は途中まで怒気に溢れている。
その手が白いシャツに届く事無く、空を切ったところから尻すぼみとなっていたが。

「女性の胸倉を掴むのは良くないんじゃない?」
「出たな、黒アゲハの紅」

紅の声に、その口角をニッと持ち上げてそう言ったのは、この中で彼女との付き合いが最も長いリボーンだ。
彼のその言葉に彼女は軽く肩を竦めた。

「アゲハの逃げ足の速さは一級品だ」
「結構失礼ですね、センセ」
「本当の話だぞ。揚羽蝶みたいにひらひら攻撃をかわすから付いた通り名だろーが」

彼の言葉に紅は短く息を付く。
攻撃を交わす姿を揚羽蝶に見立てられたのと、彼女のタトゥーが鎖骨の上に乗ったのはどちらが早かっただろう。
一秒、一分と進んでいく時の中を生きていれば、数年前の事は思い出すのも難しい。
記憶を探ったところで、満足のいく答えなど手に入るはずも無かった。

「それにしても逃げ足ってのはあんまりですよ」

そう呟きながら、彼女はツナや山本の向かいに腰を下ろす。
そして、手に持っていた白い救急箱の蓋をパカンと開いた。

「…何してんだよ」

先程引き止めるのも忘れるほどに綺麗に流された獄寺は、そのやり場の無い憤りを意識しつつ彼女の背後に立つ。
見下ろす彼の目には苛立ち以外には浮かんでおらず、それを向けられる対象ではないツナでさえも青褪めた。

「何って…出張治療人?」

日本全国を飛び回ってお宝を鑑定する誰かみたいな名前だ。
彼を見上げながら冷静にそう返した紅は、それで不満でもあるかとでも言いたげである。
救急箱を持っていた時点で、一応は想定した答えだ。
それでもはっきりと言葉として発せられるのと想像の域とではワケが違う。
獄寺は軽く舌を打ち、ツナの隣に乱暴に腰を下ろすと、紅を見ないように視線を空へと向けるように仰いだ。

「さて、と。とりあえず…ツナから始めようか」

彼女の本音を言えば、一番に治療したいのは獄寺だ。
顔面にトンファーを直撃したと言うこともあり、見た目的にも怪我が酷い。
しかし、彼がそう易々と手当てをさせてくれるとは思えない。
内臓損傷の恐れがあるといえば山本なのだが…彼の場合は、薬を作って渡した方が早そうだ。
ここは一番大人しく治療させてくれそうなツナから始めるのが妥当…と判断した結果である。
彼の怪我で心配な所といえば、頬よりも寧ろ顎の方だった。
だが、死ぬ気モードになっていた所為か、思っていたほど酷くはなさそうだ。
脱脂綿をトレイに入れておいた消毒液に浸す。
それをピンセットで拾い、彼の頬やら顎、その他擦り傷の部分に当てていく。
時折痛みに堪えるように彼の眉間に皺が刻まれるが、それで手当てを止めるほど紅の医療知識は未熟ではない。
見た目から怪我の程度を把握できるからこそ「大丈夫?」と手を止めつつ言う事も無かった。

「そう言えば、紅って黒アゲハ?って呼ばれてるの?」
「ええ。ビアンキの毒サソリみたいなものよ。右向いて」

ビアンキ、と言う名前を出した途端に視界の端で獄寺が不審な動きをしたことに気付く。
だが、それを言及する事無く紅はツナに視線を戻した。

「黒アゲハって…あれだよな。黒い揚羽蝶」
「…そのまんまね。まぁ、間違っては無いけど」
「でも、何となくわかるよな」

そう言ったのは今まで彼らの会話を聞いているだけだった山本だ。
彼はニッと屈託の無い笑みを浮かべてこう続けた。

「雪耶なら黒揚羽にぴったりだろ。なんつーか…言葉で説明すんのは難しいけどな。ところで…雪耶も怪我してんのか?」

彼が指差した先には、制服の袖から覗いた白い包帯。
どう頑張っても、袖から数センチは見える位置まで巻かれたそれに気付かないはずは無かった。

「怪我じゃないよ」
「隠してるのか?」
「そうじゃないと、先生方に目を付けられますからね」

リボーンの質問に紅は苦笑で答える。
風紀委員に所属しているにも拘らず凶暴ではなく、素行も良いと言う事で教師の評価は上々だ。
お蔭で、この包帯は火傷を隠しているのだというベタな言い訳も信じてもらえた。
この下に隠れているものを見れば、紅をこよなく信頼する教師の老化が進むものと思われる。

「はい、ツナ完了」

ピッと最後の絆創膏を貼り、紅はお疲れ様と彼の肩をポンと叩く。
大丈夫?と問いかけながらも続けられるよりは、終わった後にこうして声を掛けて貰える方が嬉しいのだと知った。

「ありがとう。隠してるって…何を?」
「んー…」

次の獄寺の治療に必要なものを救急箱から取り出しながら、紅は悩むように唸る。
でも、あまり真剣に考えている風には見えなかった。

「ま、いいか」

そう言うなり、彼女は指先をシャツの首元に滑らせる。
その指の行方を見届ける男性陣だが、それがリボンを避けて一番上のボタンを外した所で叫びに似た静止の声。

「わー!!紅!!何を血迷ってるんだよ!?」
「おいおい」

さすが青少年三名。
それぞれに若干の上下はあるものの、顔を赤らめて不自然に視線を逸らす。
何だか可愛いなぁと彼らの反応を楽しみながら、紅は三つ目までボタンを外したところで包帯の端を指先で挟んだ。
スルリと音も無く包帯が緩み、未だボタンを外すのを止めた事に気付かない彼らの傍らで順調にそれを解く。
特殊な巻き方をしているお蔭で苦労する事も絡めることも無く包帯は彼女の手に収まった。

「これを隠してるのよ」

彼女の声に、漸く冷静さを取り戻す三名。
うち一名は顔に出さないように焦っていただけに、面白いものを見せてもらったと少しばかり得した気分だ。
それぞれの視線は、迷う事無く彼女が指先で軽く広げた首元に注がれた。

白い肌の上を美しく彩る漆黒の蝶。
今にも動き出しそうなほどに鮮明で、それでいて虫独特の怖さにも似た感情を感じさせない。
これだけで芸術だと言えるほどの黒揚羽。
蝶が飛んできた軌跡を描くかのように、柔らかい曲線が彼女の肩にかかったシャツへと消えている。
そしてそれは袖口から再び顔を見せていた。
赤と青と黒以外の色は使われてない、にも拘らずその三色が絶妙なバランスで使われ、逆に引き立っている。

「綺麗でしょう?私の自慢なの」

そう言って微笑みながら、紅はその蝶の上に指先を這わせる。
その笑みはどこか懐かしい過去を思い出すようなものだった。











先程までとは打って変わって居心地の良い沈黙の中、紅は淡々と作業進めた。
初めこそ渋った獄寺も、ツナの「手当てしてもらいなよ」の一言で折れた。
どこまでも10代目には正直な男だ。

「はい、お疲れ様」
「…おぅ」

ツナにしたようにポンと肩を叩く。
山本の件に関しては、放課後沢田家に薬を届ける事を本人と約束済みだ。
使った用具を綺麗に箱に戻していた紅が、不意に弾かれたようにスカートのポケットに手を伸ばす。
疑問符を浮かべる三人を他所に、彼女はそこから携帯を取り出した。
なるほど、今も彼女の手の中で続けられている振動が、先程の彼女の行動の原因らしい。
ポケットに入れたまま振動されると意外に気になったりするものだ。

「…タイムアップね」

明らかな呼び出しメールにそっと口角を持ち上げ、一言「了解です」と返信すると片付けの手を早める。
早々にそれを終えると、彼女は立ち上がってパンッとスカートを叩いた。

「んじゃ、行くわ。応接室の後片付けが始まってるみたいだから」
「あぁ、また放課後な!」

元気な声に見送られ、彼女は屋上を後にする。
応接室での一件で彼らとの友好関係はもう少し拗れるかと思ったが、杞憂に終わった。

量の減った絆創膏と湿布を保健室で貰おうと、少し遠回りをして帰ることにしよう。

06.09.29