黒揚羽
Target --013
帰って来た時同様、荷物など殆どないに等しい。
仕事用の携帯とプライベート用の携帯をそれぞれの定位置に収め、鞄のチャックを閉めた。
ふぅ、と一仕事終えた後のように息を吐き出し、壁沿いに置かれた姿見の前に立つ。
二日前の実験の時に伸びてしまった髪は、自分で長さを整えておいた。
数センチ伸びただけならばそのままでも問題はなかったのだが、流石に10センチ以上も伸びていては不自然だ。
一ヶ月と少しの夏休みの間にそれだけ伸びてしまっては、髪が伸びるのが早い、と言う言い訳も通用しない。
服こそ違えど、約三週間前と何ら変わらない自分の姿が鏡の中に映る。
右の鎖骨辺りに見えるタトゥーを指先で撫でた。
丁度蝶が乗っている辺りをなぞると、指先に少しだけ肌の質感が変わった事が伝わる。
僅か2センチほどの変化だ。
「…それなりに長い付き合いになるわね…」
黒い揚羽蝶の下に隠れているのは、消えることのない傷跡。
暫しそれを見つめていた紅だが、ふと思い出したように七部丈のカーディガンを羽織る。
そしてサイドボードの上に置かれたアンティーク時計に目を向けた。
その時刻を読み取ると、準備を終えた鞄を肩に引っ掛けて部屋のドアに手をかける。
そこでふと室内を見回し、扉に背を向けた。
「…行って来ます」
敢えて言うならば、自分の部屋へと向けられた言葉だった。
見送りは車一台だけ、と言う紅たっての願いにより、彼女を送る車は一台だけ。
そうなれば、メンバーは必然的に決まってくる。
カツンと底の高いブーツで床を鳴らし、紅はくるりと振り向いた。
そして、真っ直ぐにディーノを見て緩く笑う。
いつものような屈託のない笑顔と言うよりは、落ち着いたそれ。
「では…ボス。アゲハはまた暫くファミリーを離れる事になります。お身体にお気をつけて」
「何だ、急に改まって」
「前の時にはキャバッローネのアゲハとして挨拶していくのを忘れていたから、ね」
そう言って悪戯に笑う。
その表情はすでに『紅』に戻っていた。
紅自身は、キャバッローネの一員としての勤めを果たす時には自身を『アゲハ』としている。
そしてそれは彼女の通り名でもあった。
黒アゲハの紅―――それは、彼女の白い胸元に舞う黒揚羽から取られている。
女性の身でありながら、男性に劣らぬ知識と度胸でマフィアの間でも有名な彼女。
アゲハとして次々に新たな薬品や武器が開発しているため、彼女が縮んでいると言う事を知るのはごく一部のみ。
そのことを知っているのは、キャバッローネとボンゴレの一部くらいだ。
「お前も気をつけろよ。アゲハはマフィアの間じゃ有名だからな」
ポンと紅の頭に手を乗せながらそう言った。
彼の視線は、彼女の肌に刻まれた黒揚羽の上を滑る。
紅はその眼差しが悲しげなものである事に気付いた。
「何度も言うけど、これは勲章。OK?」
ぐいっと彼の頬を抓む。
とは言っても力など殆ど入れておらず、戯れ程度のそれ。
どこか怒っているような声に、ディーノは苦笑を浮かべた後彼女の明るい茶色の髪を掻き混ぜた。
「ボス~…そろそろ親子水入らずの別れを惜しませてくれよ」
暁斗も重度の親馬鹿とは言え、一端のマフィア。
ボスであるディーノを差し置いて…と言う考えはないらしく、大人しく待っていたようだ。
控えめな声に彼と紅は顔を見合わせ、笑った。
「また冬休みに帰ってくるよ」
「待ちきれなくなったら俺が行くかもしれねーけどな」
暁斗もまた、紅の頭を撫でつつそう言った。
いくら14歳とは言えどれだけ子ども扱いするつもりだ、と思うのは山々だが、楽しげな顔を見ればそれも言えない。
余談だが、暁斗の髪はあの後紅の手によってちゃんと整えられた。
とあるゲームのシリーズ7作目、某赤髪キャラの髪型を黒くしただけのヘアスタイル。
紅が彼を参考にハサミを進めたのだから当然と言えば当然の結果である。
頭の上にゴーグルとかを載せても似合いそうだ。
恐らく毎朝のセットが大変だと思われるが、愛娘の「似合ってるよ」の一言を支えに毎日頑張るだろう。
「メールは一日に一回までにしてね。電話料金嵩むし、返信面倒だし」
最後の一言は恐らく暁斗には聞こえていない。
敢えて聞こえないように言ったのだ。
彼からのメールが大変だと言う事は、夏休み前の一ヶ月で嫌と言うほど理解した。
しかも返信しなければ着信音が鳴り響く―――実に、いい迷惑だ。
あの時ばかりは、一体自分をいくつだと思っているんだと問い詰めたくなった。
「…せめて一日三回!」
「………じゃあ、電話は一ヶ月に一回って事で」
「一日一回だな。わかった」
引く時は引く、潮の如くあっさりかつ速やかに。
紅はクスリと笑うと、腕時計に視線を落とした。
そろそろ空港に入った方がいいだろう。
「じゃ、そろそろ行くね」
柔らかい笑顔を残し、紅はイタリアの地を離れた。
約8時間の時差に苦しみながらも、昨晩無理やり寝ておいたお蔭か、身体に不調はない。
それでも気だるい身体を引きずりながら、紅は数週間ぶりに並盛中の校門を潜った。
夏真っ盛りの照りつける日差しの中グラウンドを駆け、部活動に励む学生を横目に校舎へと歩く。
玄関に向かおうとして、彼女はふと足を止めた。
「…先に現場を見ておくか」
誰に言うでもなくそう呟き、裏庭へと足を運ぶ。
この校舎の壁を曲がれば裏庭。
その角を曲がった彼女は、目の前に広がる光景に開いた口を塞ぐのを忘れた。
「…わーぉ…中々派手にやらかしてくれたわね…」
窓にはすでにダンボールが貼られ、桟は何か硬いもので殴ったように拉げている。
窓ガラスは粉々になったのか、足元には大豆大から消しゴムのガラスの破片が散乱していた。
大きな破片はすでに誰かの手によって拾われたのだろう。
確か、裏庭に面した教室は空き教室だったはずだと思い出し、とりあえず誰にも被害がなかった事に安堵した。
流石にコンクリートの校舎まで破損させる事は出来なかったらしい。
だが、それ以外のものは原型を止めているものの方が少なかった。
今は使われなくなったトタンの倉庫も潰れている。
「これは委員会から修理費を落としたくなるのも無理はないね。って言うか、私が直せばただなんだけど…」
目撃者が居て、学校側も知っているとあればそれも出来ない。
何をどうすればこんなに酷い有様になるのか…紅は溜め息を吐き出した。
「病院送りで済んでるのかしら…?」
「とりあえず、一応命はあるよ」
ダンボールの貼られた窓に背を向けて呟いた言葉に返事の声。
驚くでもなく振り向いた紅の視界で、ダンボールがぶち破られた。
何も折角貼ってあるものを無理やりに破らなくても…と思うのだが、口には出さない。
「お久しぶりです、雲雀さん」
「暫く見なかったね」
「イタリアに帰省してましたので。あ、後でお土産渡しますね」
こんな状態の場所でよく笑顔で会話が出来るなと自分でも驚く。
正直、何も知らない人が通ればまず目を疑うだろう。
紅の言葉に雲雀は「帰省?」と僅かに首を傾げた。
何を不思議に思ったのか理解できなかった彼女だが、ふとある事を思い出す。
「あぁ、そう言えばイタリアには“留学”してた事になってたんですね。ま、後で説明します」
面と向かってそう自己紹介したわけではないが、彼の事だ。
その程度は調べてあるのだろうと予測しての返事。
彼女の予測は当たっていたらしく、納得したように頷くと雲雀はそのまま背を向けた。
「あ!」
「何?」
大声と言うほどではない声。
まさかそれで止まってくれるとは思わなかったのだが…今日はご機嫌麗しいらしい。
「いや…面倒なんでこの窓から校舎に入ろうかなと」
「…で?」
「………もしよろしければ手を貸していただけませんか」
引き止めてしまった以上、その理由を述べる義務がある…と思う。
意を決して紡いだ言葉が連れてきたのは暫しの静寂。
やっぱり玄関まで戻ろうかとも考えたが、裏庭の真裏に位置するあそこまで校舎にそって歩くのは面倒だ。
お互い逸らす事無く目を合わせること数秒、もしくは数十秒。
「…今回だけだよ」
紅は、そう言って差し出された手を嬉しそうに取った。
トンと地面を蹴り、窓の桟を超える間に靴を脱ぐ。
羽でも生えているかのように難なくそれをやってのけ、彼女は廊下に降り立った。
「ありがとうございます。靴を置いたら応接室に行きますね」
二人は一つ目の角までは並んで歩いて、そこから左右に別れる。
まさに日本の夏、と言った感じのジメジメした暑さが校舎内まで入り込んでいた。
06.09.12