黒揚羽
Target  --012

静かな部屋に、カチャカチャという音が響く。
医者が着るような丈の長い白衣を羽織った紅は、様々な器材の乗った机の前に立っていた。
邪魔にならないよう後ろで結った髪は、その短さの所為か元気に跳ねている。
彼女の真剣な眼差しの先には、細い試験管。
ゆっくりと傾くのに合わせて中の液体が揺らめく。
徐々に徐々に入り口へと近づくそれ。
やがて、その1滴が口を飛び出し重力を味方につける。

―――…ポタリ。















ドォンと言う腹に響く重低音。
屋敷内の全員が敵襲か!?といきり立つ。
しかし、濛々と緑色の煙を吐き出している部屋を見て、肩の力を抜いた。
代わりに浮かんだのは苦笑で「あぁ、またか」や「紅が帰ってきたなぁ」などと言う声が所々で聞こえる。
そんな中、駆け出すのは二人。
一人は仲間と同じく苦笑を浮かべながら、もう一人は心底彼女を案じながら、だ。
隙間から緑色のそれを噴かしている扉を前にしたその時、ドアノブがカタリと下がった。

「紅!!大丈夫か!?」
「けほっ。……あー…平気」
「また縮んでないな!?縮むなら5年くらいに…」
「縮んでない縮んでない」

咳を繰り返す辺り、少しはこの身体に悪そうな煙を吸い込んでしまったのだろう。
彼女が咳をする度に顔を青くする暁斗に苦笑しつつ、ディーノは廊下の窓を開けてやった。
促すように紅の手を取れば、彼女は誘導に従って窓際につく。
そこで、漸く彼女の異変に気付く二人。

「………紅」
「どこで間違えたんだろう…んー…謎だ」
「……紅」
「あれの分量は間違えてないし…加熱時間?」
「…紅」
「何?」

新鮮な空気を吸い込みながら、今回の失敗の原因を探る紅。
そんな彼女をディーノが強く呼ぶ。
徐々に低くなってきた声に、彼女は漸く視線と意識を彼に向けた。
その拍子に胸元に落ちてきた髪を背中へと払う。

「髪が伸びてる」

そう言われて、はたと気付く。
先程、胸元に流れた髪が邪魔だと感じた。
だから背中へと払ったわけだが………自分の髪は肩ほどで、胸元で邪魔だと感じるほどの長さではない筈だ。

「………暁斗、ちょっといい?」
「実験台にされるのは嫌だぞ」

背中からもう一度自分の髪を前に持ってきた紅は、それを指先に絡めながら暫し沈黙する。
だが、にこりと可愛らしい笑みを浮かべると手を招いて暁斗を呼んだ。
その笑顔に覚えがあるのか、はたまた状況に覚えがあるのか。
兎にも角にも、彼の返事は早かった。

「…協力して?」
「だからなー…」
「協力して?…父さん」

彼の返事は決まっていた。











「とりあえず、イタリアにいる間に皆に試してもらうわ……あぁ、副作用はないから大丈夫。
商品化の目処は一年後ね。うん、いつも通りにキャバッローネの私の口座に振り込んでくれればいいよ。
それと、前に売り出したブリーチはどんな感じ?」

チョキチョキとハサミを動かしながら、紅は肩に挟んだ携帯に唇を寄せる。
前にある鬱陶しいほどに長い髪を切り落としていく。
その指先の動きは実に軽快で、不慣れと言うわけではない事は明らかだ。
いつもとは違う重量を感じつつ、暁斗は鏡台の前に座らされていた。

「ん。資料は全部郵送するわ。それから不明な所は連絡し―――あ、それが着く頃には日本に戻ってるわね。
少し電話料金が嵩むから………そう?じゃあ、そうしてくれればいいわよ。じゃあね」

通話が終わると、紅はハサミを持っていた方の手を空けて携帯を取った。
手についている髪が携帯につかないように気を配りながら背中側にあるテーブルの上にそれを置く。

「実験は成功なのか?」
「世の中の髪で悩んでいる人たちにとっては成功ね。私にとっては不成功」

要するに、彼女の望む結果ではなかったらしいが、そこから思いも寄らぬものが出来上がったらしい。
一つの工程ごとに、時間や経過を事細かに記録していたのが功を奏したのだろう。

「またいくらか入るから、半分をキャバッローネの本口座に移しておいてね」
「半分も移して大丈夫なのか?」

椅子に腰掛けた暁斗が見上げるように顔を動かせば、彼女の手が動くなとばかりに後頭部を押す。
それに従うように視線を鏡に戻し、それ越しに彼女と視線を絡めた。

「別に平気。向こうでの生活費は全部ディーノや暁斗が負担してくれてるから、個人的には殆ど使わないし」
「や、でも色々と使いたいだろ?欲しいもんだってあるだろうし…」
「…この姿になった時に言ったはずだけど、子供扱いしないで。中身まで若返ったつもりはないわよ。
ファミリーの中での自分の位置は理解しているつもりだし、それを違えるつもりもないわ」

スッと細められたその目が、彼女の怒の感情を表していた。
こう言うふと垣間見せる表情はとても14歳と言って通用しないだろう。

「…わかった、わかった。お前の言うようにしておく」
「そう。なら、お願いするわ。少し右向いて」

一度は止めていた作業を再開すれば、室内にはチョキチョキという音だけが響く。


そんな中、二人は近づいてくる足音に気付いていた。
こちらに向かってきている事は明白で、紅は注意をそちらに向ける。
自然と指の速度が低下して、やがて部屋唯一の音はピタリと止んだ。

「紅、お前の携帯鳴ってるぞ」

ノック無しにドアから顔を覗かせたのは、彼女のダークグレイの携帯のストラップを指にかけたディーノ。
液晶部分とそのすぐ傍のロゴが青く光っているのを見て、紅は慌てる。
自分の両手はとてもではないが携帯を握れるような手ではない。
ハサミを片手に、今まで持っていた暁斗の黒髪を下ろして部屋の片隅にある洗面台へと駆けて行った。
先程携帯を肩に挟んで通話していた彼女と同一人物とは思えないような行動だ。
頭を動かしたところで、髪型が変になるという心配のなくなった暁斗は首だけを動かして彼女の背中を追う。

「ありがとう」

手を洗い終えた彼女は、その水気をタオルで拭いつつ足早にディーノの元へと寄ってきた。
未だ着信を知らせ続ける携帯にほっと安堵の息を漏らしつつ、彼の手からそれを受け取る。
そしてボタンを押そうとして、一瞬動きを止めた。
二つの双眸に見つめられている事に気付いた彼女は、通話ボタンに指を掛けたまま隣の部屋へと移動する。
パタンと扉が閉じられ、残された男二人。

「……………え、ちょっと。何、あの恋人との電話の為にリビングから自室に移動する娘みたいな行動」

凄く具体的だが、何だか妙に的を射ている。
そう感じたディーノは暁斗の言葉に苦笑を浮かべた。

「ま、気にすんなよ暁斗」

ポンと服を汚さない為にビニールをかけた肩に手を乗せる。
暫し頭の整理に追われていた暁斗が声を上げるまで後20秒。
紅がこの部屋に戻ってくるのはそこから更に2分後だった。

06.09.10