黒揚羽
Target  --011

数メートルの距離をおき、向かい合う紅とディーノ。
ディーノの口元にはいつもの不敵な笑みが浮かんでいる。
対して紅はと言えば、真剣そのものの目つきでタイミングを計っていた。
鞭を振るには差し障りない広さの室内を包むのは静寂。
二人の邪魔にならないよう壁にもたれていたロマーリオの持つグラスから、滴が落ちる。
重力に従ったそれが床を打つのが、合図となった。
紅が鞭を持つ手を、前を通してぐっと引きつつ床を蹴る。
彼女が動いたのにあわせるように、ディーノも自身の得物を持ち上げた。
と同時に、部屋の扉がバンと開く。

「紅~…ぐはっ!」

ディーノと紅の間で倒れこむ人影。
先程の声だけで、それが誰なのかを理解するのは十分だ。
…尤も、こうして紅の修行中にこの部屋に飛び込んでくるような命知らずは一人しか居ない。
二人の鞭に挟まれる形で両頬を打たれた彼を見下ろし、「…またか」と呟くディーノ。
また、と言う事は前にも何度かあったということだ。
最早呆れの感情以外に先に立つものなどない。

「暁斗!鞭の前に飛び出す馬鹿がどこに居るのよ!!修行中って言う字が読めないの!?」

床に伏す暁斗を引きずり起こした後、紅はそう言って声を荒らげる。
片手は彼の胸倉を掴み、もう片方は真っ直ぐに扉のプレートを指差していた。
そこに書かれているのは『修行中。立ち入り禁止』。
もちろん、イタリア語だけでなく日本人である暁斗にも分かるよう敢えて日本語でも表記してある。
彼の場合はこちらの生活が長いのでどちらも使いこなせるのだが。

「今は普通の修行用の鞭を使ってたから頬が腫れる位で済んだけど、私の鞭なら頬が裂けてるのよ!?」
「…よぉ、紅。おはよーさん。怒った顔も可愛いなぁ」
「……………」

プチッと何かが切れる音がしたような気がする。
気がつけば、暁斗は数メートル向こうの床に伏していて、自分の手の指の付け根はヒリヒリと痛みを訴えていた。
要するに、口で言っても伝わらないので考える間もなく手が出てしまったらしい。
これもよくある事なので、ディーノもロマーリオもあまり心配はしていない。
寧ろ微笑ましく見つめる視線を感じ、紅は彼らを振り向きながら軽く肩を竦めた。

「ロマーリオ。部屋に連れて行って」
「あぁ。…今回は目が覚めるまで2時間は掛かりそうだな」

紅の声に反応して、ロマーリオは床の上で伸びている暁斗に近づき、彼を覗き込む。
当然の事ながら意識はなく、彼の中々端正な顔の両側は赤く腫れていた。
そんな彼を見てロマーリオが苦笑交じりにそう漏らせば、紅は溜め息と共に壁の傍に置いていた箱に向かって歩く。
慣れた手つきでその中から小さなボトルを取り出し、暁斗を担いだ彼の元に歩み寄る。

「これ、宜しく」

両手の塞がっている彼の胸ポケットにそれを滑り込ませ、紅はそう告げた。
分かっていると頷くと、彼はそのまま部屋を出て行く。
パタンと扉が閉じれば、室内はディーノと紅だけになった。

「…接近戦での身体の使い方が分かってきてる。中々いい傾向だ」

沈黙と共に様子を見守っていたディーノがそう言葉を始める。
驚いたように振り向く紅だが、その表情は嬉しそうだ。

「本当!?」
「前々から接近戦に弱いとは思ってたんだが…自分で気付いたみたいだな」
「自分で気付いたって言うよりは………気付かざるを得ない状況になったって言う方が正しいかも」

そう答えながら、紅はヒュッと鞭を振る。
一度目のそれで開いたままだった箱を閉じ、二度目で金具を閉じる。
寸分狂う事無く行われた一連の動作にディーノが口笛を吹いた。

「お見事」
「ディーノに掛かれば1回で出来る作業でしょう?…今は無理だけど」

後半部分はひっそりと。
紅は彼を振り向きながらそういった。
すでに修行の雰囲気はなく、お互い談笑モードに入っているように見える。
邪魔にならないようにと殆どの家具を別の部屋に追いやった為、ここにあるのは端っこに設置されたソファーだけ。
二人は足並みを揃えてそちらへと向かう。







「ところで。さっき言ってた“気付かざるを得ない状況”ってのは?」

先程の部屋の隣には、小さいながらも紅にとっては充実したキッチンが作られている。
と言っても料理をするには少し不便で、出来るといえば飲み物を用意する程度。
それでも、日本のマンションには未だ用意出来ていないサイフォンがある――それだけで紅には満足だ。
とは言え今の季節は夏真っ盛り。
流石に熱いコーヒーは飲みたくないだろうと、アイスティーを用意して先程の部屋に戻った。
二つのグラスのうち一つをディーノの前においたところで、彼が口を開く。

「んー…。気付いたのは、センセの一言だったの。でも、きっかけは―――強い人」

ふと表情を緩ませた彼女に、ディーノは内心驚く。
普段からコロコロとよく表情を変える彼女だが、これほどに穏やかなものを浮かべる事は珍しい。
敢えて名前を出さないところに意味があるのかどうかはわからない。
それでも、彼女の中の何かを変えた人物である事は確かのようだ。
恐らく彼女が“強い”と感じたのは肉体的なものだけではないのだろう。

「俺よりも?」
「…さぁ、どうだろうね」

少し意地の悪い質問をしてみれば、返って来たのは悪戯めいた返事。
クスリと笑みを浮かべ、その答えを曖昧にしてしまう。
本当に分からないのか、誤魔化すつもりなのか。
どちらとも取れる答えは何とも彼女らしいもので、彼はそんな彼女に苦笑した。

「楽しんでるみたいだな」
「うん。二度目の中学校生活はどうなるんだろうって思ってたけど…案外大丈夫」

不安はなかったけれど、周囲に影響を与えてしまわないかが心配だった。
実年齢を考えれば10も年下の子供に囲まれて送る生活。
一線を引いてしまうのも決して無理のある話ではない。

「あの人のおかげかな…」

風紀委員に引き込まれたのは無理やりに近かったけれど、その後は放置と言うわけではなかった。
基本的に彼女の意思は尊重されていたし、風紀委員の内部も乱れるかと思ったが案外平和に過ごせている。
尤も、後者に関しては紅と風紀委員副委員長の遣り取りが関係しているのだが…それはまたの機会に取っておこう。
一線を引いた生活も、風紀委員のいざこざに巻き込まない為の計らい、と言う噂が流れていて悪い印象は与えていない。
彼女自身も必要なところではきちんと関わりを持つため、学校生活は円満と言っても過言ではなかった。

「そっか、ならよかった。暁斗の奴が心配してたからな。アイツにも話してやれよ」

土産話は持ってきたんだろ?と問いかける彼ににっこりと笑みを返す。
もちろん、と返す彼女の手元で、グラスの中の氷がカランと音を立てた。
















あれからきっかり二時間後。
用事があるといったディーノと別れ、紅は暁斗の部屋を訪れていた。
ディーノの言葉通りに、彼に話したような内容を少しだけ変えて暁斗にも伝える。
相槌を挟みながらも、彼は真剣に…時折嬉しそうに、紅の話を聞いていた。

「それにしても。紅にそこまで言わせるような奴が居るのか」

大体の話が終わったところで、彼はポツリとそんな事を言う。
窓際に置かれた花瓶の花を整えていた紅が、椅子に座っている彼を振り向いた。

「そこまでって?」
「紅は良くも悪くも他人に無関心だろ?必要以上に踏み込ませたりしない。
そんなお前が、接近戦に慣れるほどに近づかせる奴に…俺は興味があるんだ」
「無関心…かなぁ」
「見た目プラス10歳ってのは大きいな。お前は世間を知っているだけに、人を見る目がある。
だから、関わる必要のない相手とは不自然じゃない距離を取る。それに慣れているんだ」

それ故の『無関心』。
指摘された紅は一瞬きょとんと目を瞬かせるが、次には苦笑いを浮かべる。
覚えがないわけではないらしい。

「気にすんな。その代わり、お前は自分の領域に踏み込んだ人間を大事に出来る。人間、多くは強請るもんじゃねーよ」

それだけで十分だろう?と言う言葉と共に振ってきたのは優しく大きな手。
実年齢としてはそう離れては居ないけれど、彼はやはり自分の『父親』だった。
兄ではなく父親。
そう感じさせられる掌に、そっと笑みを浮かべる。
血の繋がりはなくても、注がれる愛情に不安も不足もない。






「てか、紅が他所の奴まで気にかけだしたらお父さんは愛娘を日本に帰すのが心配で心配で…」

頼りがいのある『お父さん』から一転。
いつもの調子を取り戻してしまった彼に、紅は瞼を半分ほど下ろす。
そしてふと、何か思いついたようにニッと口元を持ち上げた。

「……………あぁ、そう言えば…さっき話してた“強い人”って言うのは、女の人じゃないよ」
「…!?ちょっと待った!!お前の話し方だと明らかに女っぽかったぞ!?大体男なんて…!」
「あ、ディーノが帰ってきた。んじゃ、また修行に戻るね」
「紅ー!!」

実のところ、紅はこの為にディーノに話した時とは内容をほんの少し変えていた。
暁斗をからかうのは、彼女にとって楽しみの一つなのだ。
イタリア生活はこうして進んで行く。

06.09.06