黒揚羽
Target --008
ピリリリッと鳴ったのは目覚まし時計ではなかった。
頭の片隅がそれを理解したのか、そちらに向かっていた指先が進路を変更して携帯を掴む。
まだ殆ど覚醒していない頭で通話のボタンを押した。
「…はい」
『俺だ。まだ寝てたのか?』
「………センセ…いじめですか…?私、寝起きが悪いって言いましたよね…」
普段の倍くらいの時間をかけて紡ぎだされる言葉。
それを急かしたりしない辺り、電話の相手であるリボーンもちゃんと低血圧を理解しているのだろう。
『それより、今からツナの家に来い』
「ヤ、です」
眠い所為か、どこか言動が子供っぽくなっている。
喋らせなければこのまま携帯を握ったまま寝ていきそうな勢いだ。
『ビアンキが会いたがってるぞ』
「…………………2時間後に行きます」
『一度作ってみたい料理があるらしくてな、紅を持て成すつもりらしい』
「30分で行きますから彼女を止めておいてくださいね、センセ」
絶対ですよ、と念を押す。
すでに眠気はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
いくら仲が良いとは言っても、ポイズンクッキングの餌食になるつもりは無い。
以前口にしたクッキーで、丸一日目を覚まさなかった苦い思い出が脳裏に蘇った。
携帯を肩で挟むようにして会話を続けながらも、ベッドから降りてクローゼットの中から服を選ぶ。
『30分だな。それ以上はもたないぞ』
「ええ、30分です。宜しくお願いしますね」
そう言って通話を切る。
未だ嘗て無いほどの短時間の覚醒を成功させたわけだが、もちろん嬉しくない。
30分を超えてしまった時の事を考えて若干青くなりつつ、用意を急いだ。
白い切りっぱなしのジーンズに、アースカラーのチューブトップ。
その上に七部丈のカーディガンを羽織ると、キッチンで昨日作っておいた一口サイズのスコーンを手に取る。
埃を被らないようにと、冷ましてから軽くラッピングしておいて良かった。
それを鞄に放り込んで部屋の鍵を持ち上げる。
リビングを出る前に一度部屋を振り返り、ぐるりと視線を一周させた。
そして、紅は自宅を後にする。
沢田家のチャイムを鳴らしたのは、通話を切ってから27分後。
走ってきたわけではないので、呼吸を整える時間は必要なかった。
「間に合ったみたいだな」
玄関で彼女を迎えたのは先程電話してきたリボーンだ。
その後ろからエプロン姿のビアンキが歩いてくる。
「あら、紅。もう少しゆっくりでも良かったのに…」
「久しぶり、ビアンキ。料理はいいから、お茶にしない?お土産も持ってきたし」
そう言って鞄からスコーンを取り出す。
ポイズンクッキングを代名詞とする彼女だが、味覚がおかしいわけではない。
彼女は特に紅のお菓子を気に入っていていた。
「じゃあ、飲み物を用意するわ」
「うん、よろしく。所で…奈々さんは?」
「今は近所の人と出かけてるわ」
「じゃあ、挨拶は出来ないね。ツナくんは?」
奈々と言うのはツナこと綱吉の母親の事だ。
因みにビアンキはリボーンの愛人と言う位置で、彼と一緒に過ごす為にイタリアから来日している。
紅の質問に、リボーンが階上を指差して「部屋にいるぞ」と答えた。
この家の主ではなくリボーンが紅を迎えると言うのは何かおかしいのでは…と紅は思う。
そんな彼女の思考を読み取ったのか、彼は口を開いた。
「今は俺の課題中だ」
「あ、授業の途中だったんですか。すみません」
「別に構わないぞ。呼んだのは俺だからな」
「…そう言えば、そうですよね。何か用事でもありましたか?」
態々ビアンキのポイズンクッキングを出してまで呼び出すような、と少し声を小さくして問いかける。
すでに彼女はお茶の準備とキッチンに向かっているのだが、声を小さくしたのは気分的なものだ。
やはり、彼女の耳に入れるような事はしたくない。
たとえ、想像を絶する料理を振舞ってくれるような彼女だったとしても、大事な友人である事に変わりは無いのだ。
「ツナの相手をしてもらおうと思ってな」
「相手?」
「紅、お前勉強できるだろ」
「…まぁ、それなりには」
自信満々に出来ますと答えられるような性格ではない。
少し…いや、かなり謙遜が入っているが、紅はそう答えた。
「じゃあ、ツナの課題が終わったら一緒にテストだ」
「私もですか!?それって相手じゃないように思いますけど…」
「一緒にやる相手が居た方が、ツナもやり易いだろ」
11時になったら上がってくるように、と言い残してリボーンは階段の上へと消えた。
抜き打ちテストに若干顔を引きつらせた紅を、準備を終えたビアンキがリビングから呼ぶ。
「あら、リボーンは?」
「ツナくんの様子を見に行ったんだと思うよ」
「そうなの…折角用意したのに、残念だわ」
その時になって、紅はハッと我に返る。
ビアンキの用意したものは、たとえ飲み物であってもポイズンクッキングになることを忘れていた。
すでに彼女の腕にはトレーが握られ、その上には湯気を立てるカップ。
紅からは中身は見えないのだが…恐らく、ふつふつと沸騰しているか、口に出すのも嫌なものが浮かんでいるだろう。
「………ごめん、水もらえる?」
「いいけど…紅、薬なんて飲んでいたの?」
「ちょっとね。あー…いいわ、自分でもらう」
ビアンキに頼んだ紅だが水までポイズンクッキングになっては困る。
家主に無断でキッチンに入る事を申し訳なく思いつつも、自身の身の安全には変えられない。
鞄に入れてある掌サイズのケースからコロコロとBB弾程度の大きさの錠剤を3粒取り出す。
それを飲むと、リビングで待つ彼女の元へと歩いていった。
因みに、紅が調合した胃の粘膜の保護を強化する薬だ。
摂取前であれば大抵の毒に有効だと言う実験結果は出ているのだが…果たして、ポイズンクッキングに通用するのか。
半ば賭けの様な状態ではあったが、何もしないよりはマシと言うのが紅の意見。
ささやかな抵抗と言われようが、背に腹はかえられない。
「はい、今日はレモンティーよ」
「ありがとう」
差し出されたカップを両手で受け取り、紅は口元が引きつらないように笑う。
見下ろした水面に異常はない。
液体自体も、白いマグカップの底を映すほどに澄んだ透明だ。
しかし、侮る事なかれ。
これを淹れたのは、何を隠す必要もなくビアンキだ。
見た目だけが一級品と言う可能性も十分にありえる。
彼女が作ったものは、たとえ袋から取り出したパックを湯に浸しただけでも危険なのだ。
紅がそれを見下ろしている間に、ビアンキはいそいそとスコーンの袋を開けていた。
と言っても少し可愛いリボンで緩く口を閉じているだけで、大した事はない。
「相変わらず料理は得意なのね。店に並べても買ってもらえるわよ、きっと」
「そう?ありがとう」
美味しそうに頬張るビアンキに向けて嬉しそうに微笑みながら、紅は覚悟を決めた。
「ツナは29点、紅は92点だぞ」
「うっわ、真逆…。って言うか、紅さんあのテストで92点も取ったの!?」
各自に返された、赤いペンで点数を記入された解答用紙。
ツナは赤点に肩を落とし、紅の点数に驚いた。
数学が苦手な自分が言うのもなんだが、中学校のレベルとしては難しすぎる問題も結構あったと思う。
それなのにその点数を取った彼女に、ただ驚きを隠せなかった。
もしかすると獄寺並み…いや、恐らく彼よりも頭がいい。
「紅、どーした?こんな初歩的な間違いなんてお前らしくないぞ」
「うーん…すみません。満点取るつもりだったんですけど…体調が悪くて」
苦笑いを浮かべてそう答える紅の顔色は悪い。
紙のような、と言うほどではないが、軽い貧血状態にあるような感じだ。
「ビアンキのポイズンクッキングの所為だな」
「………え!?紅さんビアンキの料理食べたの!?」
「レモンティーを飲んだだけよ。それに…体調不良は薬の副作用ね」
「薬?」と首を傾げるツナの前に、リボーンがどこから取り出したのか丸く小さな錠剤を掲げる。
そして、説明するように口を開いた。
「紅は開発局の人間だからな。その中でも、医薬品と新武器の開発には他のファミリーも注目してるんだぞ」
「そんなに凄い人だったの!?」
同じ中学生の枠を超えている彼女に、ツナの部屋には彼の驚く声が何度も木霊した。
06.08.28