黒揚羽
Target --007
紅が転校してから、約三週間。
7月も半ばで、もう数日後には夏休みを迎えようかという頃だ。
「紅ー。お昼一緒に食べない?」
「あ、ごめん!今日は用事あるの」
教室の端と端でそんな言葉を交わす。
紅を呼んだのは、ツナの密かな想い人―――笹川京子だ。
彼女の傍らにはすでに黒川花も居て、こちらを向いている。
紅は彼女らに向かって片手を床に垂直に立てて謝罪の言葉を述べた。
それを聞くなり、京子は笑って「じゃあ、今度だね」と答える。
隣では花が肩を竦めるが彼女は何も言わなかった。
生活に慣れた最近になって、彼女は昼食に弁当を持ってくる余裕も出来てきた。
低血圧なのでいつケガをするかと言う危ない状況だが、料理と言うのは完全覚醒に効果的だ。
覚めるまでに弁当が出来上がっていると言うことも間々あるが。
それとシンプルなペンケースを腕に抱えると、紅は教室を出て行った。
彼女の左腕には例の腕章。
その存在を見止めた花がやれやれと溜め息を吐き出す。
「しかし…紅もよくやるねー。あんな暴力集団の中で」
「でも、紅は無理やり勧誘されたって聞いたよ。大丈夫なのかな?」
「ま、あの子なら心配要らないんじゃない?あれで中々しっかりしてるみたいだし…上手くやってるんだよ、きっと」
早く食べよ、と椅子に座る花の横で、京子はやや躊躇いつつも「そうだね」と頷いた。
あの日、あの時。
紅は確かに腕章を腕に付けない許可を得ていた。
しかし、三週間後の今、それはちょんと彼女の腕に鎮座している。
これは彼女にとっても予想外だった。
風紀委員の存在は、二・三年の殆どが知っている。
一年生は入学してまだ日が浅い事から知らない者もいるだろう。
一方、紅の存在はと言えば、全校生徒の殆どが知っている。
唯一の女性風紀委員と言う事もあってか、噂は瞬く間に広がった。
風紀委員と結びつく言葉と言えば、恐怖が近い。
自然と紅に対する視線もその色を帯びて来た頃、思わぬ動きをしたのが彼女の転入以来密かに心を寄せていた男子だ。
その内の一人が、自分達に都合のいいように事実を解釈する。
――彼女は、その容姿を見初められて無理やりに風紀委員に引き入れられたのだ、と。
そう解釈してしまえば、後は思い込みの世界。
決して少なくはない彼女のファンが、頼んでもいないのにそれを広めていく。
結果として、紅に対する視線は負のものから一転することとなったのだから、その働きは褒められるべきものなのだろうか。
「無理やりに近かったって事は否定できないけど…前半はちょっと違うよね…」
噂を思い出していた紅は、苦笑に似たそれを浮かべながら呟く。
半ば強制的ではあったが、別に見初められたわけではないだろう。
どちらかと言えば、その戦闘センスを評価された…と言った方がまだ正しい。
手の甲を扉に向け、コンコンとそれを打ち鳴らす。
そして返事を聞く前に室内に入った。
「………何で一日でこんな事になるんですか」
開口一番、彼女は呆れたように少しばかり怒りを含ませてそう言った。
彼女の視界に映ったのは、不器用に詰め込まれた棚。
昨日半分ほど整理を終わらせたばかりのはずなのだが………その、終わっている部分さえも紙がだらしなくはみ出ている。
「また来たの?」
「ええ、今の時間でこの棚の整理が終わる予定だったので」
見事に予定に終わりましたけれど。と彼女は静かに言う。
持ってきた荷物を脇に置いて、ファイルとファイルの間に挟まっている紙を引っ張り出す。
四隅が変色しつつあるそれは藁半紙で、記入されている日付は四捨五入すれば10年前のもの。
「…放置しすぎ」
そう言いたくなるのも、決して無理のある話ではなかった。
それをクシャリと手の中で潰すと、昨日も使ったゴミ袋を部屋の隅から運んでくる。
「それにしても…何をすればこんなに酷い有様になるんです?」
「適当に片付けておくように言ったんだけどね…帰ってきたら、こうなってたよ」
半分終わっていたのだから、紅の手を借りずとも完了させる事くらいは出来る。
それが雲雀の考えだったのだが、生憎それを実践できる人材は風紀委員の中にはいなかったらしい。
結果として、整理済みだった箇所まで荒らして紅の手間を増やす事となった。
「今日の午前中に来ていた救急車はその人の為か…」
恐らく雲雀の制裁を受けたのだろう。
あぁ、また誰か被害を受けたのかなぁ程度に思っていたのだが。
「片付ける前に食べれば?もたないよ」
「あぁ、大丈夫ですよ。朝食べてますから。何なら食べてくれても構いませんし」
殆ど1日2食で習慣付いていた身体は、未だに3食は気分が悪くなる事もある。
食べなければいいのだが、以前京子や花と食べた時に自分は飲み物だけにして怒られた。
無理やりにおかずを分けられてしまえば、次からは持って来ざるを得なかったのだ。
「…食べられるの?」
「失礼ですね。こ、れでも家事全般は得意分野、ですっ!」
ファイルとファイルの間に挟まっている別の藁半紙と格闘しつつ、紅は答える。
一ミリのすき間もなく詰め込まれたそれは、指先の力だけではどうにも抜けそうに無い。
気を抜けばビリッと端っこだけ千切れてきそうなそれ。
かといって、ファイルを一つ抜けば半分くらい雪崩の如く落ちそうな雰囲気だ。
睨みつけるように棚を見つめては、もう一度と試す彼女。
その背中は、見ていて面白いものだった。
「くそ…忌々しい…!いっそ燃やしてやろうか…」
「応接室でボヤ騒ぎは許さないよ」
「大丈夫。全部元通りに修復しますから」
棚と向き合ったまま、半ば反射的に答える紅。
意識して答えたわけではないのだが、唇を滑り落ちた言葉を拾い上げる事は出来ない。
数秒後、紅は自身の過ちに気付く。
だが、その時にはすでに傍らに人の存在があった。
横から伸びてきた指先が、今まで彼女が格闘していたそれを難なく抜きさる。
恐らく、彼女が頑張ってきた効果がその時になって現れたのだろう。
はい、とそれを彼女に向けて差し出しつつ、彼は問うた。
「元通りに修復、って何?」
「…聞かなかった事にしていただけると嬉しいのですが」
「聞かれたくないの?」
「まぁ………出来る事ならまだ話したくありません」
どうも、と藁半紙のそれを受け取り、日付を確認して握り潰す。
たった一枚の紙切れには不必要なまでの力を込められた指先は、彼女の日頃の鬱憤を晴らすかのようだ。
「ふぅん…色々と秘密がありそうだね」
「お願いですから口閉じてください。その内に墓穴掘る自信がありますから」
握り潰したゴミを袋に投げるついでに、彼の背中を押してソファーの方へと追いやる。
三週間前には脱兎の如く逃げていたとは思えない成長振りだ。
無理強いするつもりは無いのか、何かの作戦なのか。
どちらとも分からないが、彼は紅の腕の力に逆らおうとはせず、手が離れてもそのままソファーへと歩く。
彼の背中を見ていた紅は静かに息と共に緊張を吐き出す。
今一、彼の性格が分からない。
踏み込み過ぎない位置にいるのに、気がつけば心のうちまで見透かすような目を見せる。
紅は決して視界の外には出てくれない彼の扱いに悩んでいた。
突き放す事ができない自身にも。
「じゃあ、放課後まで誰にも触らせないでくださいね。今度散らかしたら原因を締め上げますから」
昼休みも残すところあと5分と言うところで漸くすっきりと片付いた。
個人情報の載っていた書類をトントンと揃えると、まとめてシュレッダーの口に流し込む。
機械の中では細切れの紙切れが重力に従って山を作っているのだろう。
それを最後に、紅は横の髪を上げていたヘアピンを抜いた。
サラリと明るい茶髪が頬へと流れてくる。
「放課後も来るの?まめだね」
「片付いていないの嫌いなんです」
彼女が指差した方向には、机の上に詰まれた『片付いていない』それ。
たかだか中学の委員会だ。
そんなに仕事も無い筈なのだが…整理すれば出てくる未処理の仕事。
目にしておきながら放っておくのは、彼女の性格が許さなかった。
肩を竦めながらペンケースだけを持って応接室を後にする彼女。
ちょこんとテーブルの上に残されたそれは、放課後も変わらない位置にあった。
ただし、その重さだけは変わっていたが。
06.08.26