黒揚羽
Target  --004

油断した。
一言で言ってしまえば、ただそれだけの結果だ。
昨日に比べて視力が回復するのは数分早く、数回の瞬きの後校舎の方を見れば、玄関に消える小さな背中。
今から追えば捕まえる事は出来るだろうがそこまで躍起になるつもりはない。
両手に持っていたトンファーをしまい、彼は肩にかけていたはずの学ランが無い事に気付く。
視線を彷徨わせてみれば、目当てのそれは校門のすぐ脇に落ちていた。

「…転入生、か」

拾い上げた学ランの土埃を払いつつ、そう呟いてみる。
あの目立つ容姿で今まで一度も見た事が無いと言う事は、恐らくそうなのだろう。
バサッとそれを肩に羽織る雲雀の口元は楽しげに持ち上げられている。

「面白いね。あの負けん気の強いところが」

あの状況で、結局名前を名乗らずに逃げ延びた彼女。
素直に名乗るのをプライドが許さなかったのか、どうあっても名乗りたくない事情があるのかは知らない。
ただ、彼女の口からその名前が紡がれていないと言うことだけが事実だ。
あれだけ激しく攻めておきながら、確かな手応えを感じられなかったのは今回が初めて。
応接室に向かって歩き出しつつ、彼はそんな事を考えていた。











右見て左見て右見て…。
信号でもないのに、傍から見れば不審極まりない行動を繰り返すのは、先程職員室から解放された紅だ。
きょろきょろと彷徨わせた視界でそれを見つける事は無く、彼女はそっと安堵の息を漏らす。
そして「よし」と意気込み、一歩を踏み出したその時。
肩をトントンと叩かれ、彼女の身体は数センチ飛び跳ねた。
叫ばなかったのはそのしつこいまでの意地のお蔭だろう。

「セ、センセ!驚かせないでください!口から胃が飛び出しますよ!」
「こう言う時は心臓が飛び出しそうって言うんだぞ」
「知ってますよ。でも、現実的に飛び出すとすれば胃の方が先じゃないですか」
「…悪かったな。こんな所で何してるんだ?」
「転入の説明を受けに来たんですよ。センセこそここで何を?」
「俺はツナの家庭教師だからな」

ここに居てもおかしくはないんだ、と語る彼に、なるほどと頷いてみる。
普通、世間一般の家庭教師は学校にまで押しかけたりはしないのだが、紅はそんな事は気にしない。
彼女は一度尊敬の対象に見た人物は最後まで信じきるタイプだ。
その境界線は、彼女が建前でなく敬語を使うか否か。
基本的に紅は目上の人物に対しては言葉を正す。
そう言った概念を取り払って、尚且つ彼女が敬語を使うと言う事は、彼女が認めたという事なのだ。

「センセ、これから暇ですか?」
「暇と言えば暇だぞ」
「じゃあ、相手してくれません?何か、昨日今日と全然決定打にならなくて…」

自信を喪失しそうだ…と肩を落とす紅。
元々そんな山のように高い自信を持っているわけではない。
それでも、攻撃が掠りもしないと言うのは結構ショックだ。
何があったかを知らないリボーンだが、彼女の様子に肯定の返事を返す。
嬉しそうにありがとうございます、と微笑み、二人は場所を変えるべく歩き出す。
その頃、彼女が出て行って数分後の職員室で一悶着起こっていたのだが、彼女が知る由も無い。















「相変わらずいい動体視力と反射神経だな」

リボーンがそう舌を巻くのも無理は無い。
僅か2度目でその銃の弾速に慣れた紅は、それ以降一度も掠っていない。
それだけでなく、下手をすれば直撃という場面でもわざとギリギリで避けている。
彼女が動く度にセミロングの髪が太陽の光を反射させ、まるでブロンドのようにきらめく。
装弾数全てを撃ち終えたところで、彼女はその足を止めた。

「うーん…銃弾なら掠らないんだけどな…」
「なら、今度は避けるなよ」

新たな弾丸を補充すると、リボーンは彼女に照準を合わせる。
それを見て、紅はスカートの裾から手を差し込んだ。
太股に装着してあるホルダーの留め具を解けば、パラリと鞭がコンクリートの上に身体を伸ばす。
雲雀と対峙した時にはさも丸腰のように避ける事に集中していた彼女。
だが、実際には丸腰ではなく、ちゃんと自身の得物は持っていた。
それを持ち出さなかったのは、これを手にすれば長引くとわかっていたからだろう。

「本気で来いよ。じゃないと修行の意味が無いからな」
「わかりました」

銃声と共に彼女の姿は消える。
キンッと金属音がしたかと思えば、弾かれた銃弾が屋上のコンクリートに転がった。
紅の鞭がリボーンの脇を掠める。
間髪容れずに自身に向けて放たれる弾丸を、持ち手の終わりの部分に嵌めこんだ金属で弾く。
と同時に、カチッと乾いた小さな音。
振るわれた彼女の腕の動きに合わせて、コンクリートに数センチの深さの亀裂が走る。
まるで刃物で引き裂いたかのようなそれを見て、リボーンが口を開いた。

「…また改造したのか。器用な奴だな」
「今度は先端に0.2ミリのダイヤを埋め込んでみました」

結構使えますね、と危険な事を笑顔で言ってのける紅。
つくづく普通や一般的などと言う言葉の似合わない人間だ。
彼女はこれまで手先の器用さ、頭の回転の良さを活かし、様々な武器や道具の改良を重ねてきた。
ファミリーの中でも非常に重宝される存在なのだ。
それだけでなく、その人柄からもかなり可愛がられているのだが。

「今日はこれくらいにしておけ」
「はい。ありがとうございました」

再びカチッと音が鳴ったかと思えば、鞭の先端から顔を覗かせていたダイヤの欠片が頭を引っ込める。
一振りで鞭を自身の手の中に束ねると、太股のホルダーに戻した。
リボーンもどこにしまいこんだのかはわからないが、すでに手ぶらの状態だ。

「腕は落ちてねーぞ。反射神経も動体視力も衰えてないしな」
「そうですか…」
「そいつとの戦闘における相性が悪いんじゃねーか?」
「…相性…ね」
「紅は近距離攻撃が苦手だったからな」
「そう言えば…。相手は近距離タイプです」

なるほど、と彼女は数回頷く。
武器が武器だけに、彼が接近戦に長けている事は言うまでもない。
自分の苦手なタイプだったならば納得できなくも無いな、と彼女は思った。
今回の件で、自分の苦手とするところがはっきりしたくらいだ。

「苦手なら克服しろ。相手を挑発すればいいじゃねーか」
「挑発……どころか、見つかったら危ないですよ…。2回逃げてますし」

今度こそ容赦などしてくれそうに無い。
と言っても、今までしてくれていたのかさえ微妙なところだ。




「気がつけば、思ったよりも時間が過ぎてますね」

ふと腕時計に視線を落とした彼女は、すでに午後の授業が終わる時間だと気付く。
授業の終了時刻を知っているのは、先程説明の時に時間割を渡されたからだ。

「そう言えば、紅はどこに住んでるんだ?」
「えっとですね………あぁ、アレです。あのマンションの5階」

学校の屋上から見える範囲をぐるりと見回し、目当てのそれを指差す。
自分が歩いてきた方角から考えてもまず間違いは無いだろう。
リボーンはそのマンションを見て感心したような声を漏らした。

「結構いいマンションじゃねーか。よかったな」
「別に普通のでいいって言ったんですけど……一人暮らしは心配だからって皆に説得されました」
「…相変わらず親馬鹿だな」
「私も皆が大好きです」

背中で自分の両手の指を絡めて、彼女は笑う。
彼女のそれが偽りの無い言葉だということは、その表情や雰囲気全てが教えていた。
吹く風が頬を撫で、彼女の髪を遊ぶ。
目に掛かりそうなそれを脇へと掻き揚げる仕草は、とても中学生には見えないものだった。
表情や空気だけで言うならば、成人しているといわれても頷けるそれだ。
彼女はそのまま風を真正面から受けるように歩き、フェンスに手をかける。
そして校舎から校門へと続く道にちらほらと生徒の姿があることに気付いた。

「センセ、もう下校が始まってるみたいですよ」
「そうか。なら、帰るぞ」
「ご一緒しても?」

帽子の位置を直しながらリボーンが頷くと、彼女は嬉しそうに「ありがとうございます」と答える。
歩き出しそうな彼にストップをかけ、彼女は屋上のコンクリートに膝を着いた。
先程鞭が作った真新しい傷を指先で撫でる。

「負の3600秒」

小さくそう紡ぐと、彼女は立ち上がって別の場所へと移動する。
そこには小さな銃創が残っていた。
同じく指先をそこに滑らせては、別の跡へと足を運ぶ。

それが終わると、彼女はリボーンを促した。
先に歩き出す彼に続くようにして屋上からの階段を下りて行く。
彼女らが去った屋上には、傷や亀裂は一つも残っていなかった。

06.08.20