黒揚羽
Target --002
「Piacere.Felice di conoscerLa.」
「え?な、何!?」
少女の形良い唇から、流麗な外国語が紡がれる。
もちろん、落ち零れというレッテルを頂戴している少年は慌てた。
「“初めまして。お会い出来て光栄です”って言ってんだぞ」
リボーンの言葉に彼女はにこりと微笑んだ。
目の前の少女―――そう、少女だ。
少女に間違いは無い。
なのに―――
「こんにちは、10代目。ワケあって、師匠の代わりにご挨拶に伺いました」
彼女は、まだなってもいない10代目と言う聞きなれた呼び名を吐き出した。
またリボーンの関係かよ、とうんざりしたのは、他でもないツナこと沢田綱吉だ。
彼よりも深い色の髪は、彼女の動きに合わせてサラサラ揺れる。
顔立ちもよく、印象的な眼差しは決して緩くも厳しくも無く、その優美な口元に合わせてコロコロと表情を変えた。
「こいつは俺の弟子の弟子だ。まぁ、正式じゃねーけどな」
「あぁ、そう言えば…日本で学校に通う事になってるらしいんですよ。センセ、何か聞いてます?」
「聞いてるぞ。学校はツナに送ってもらえ。一緒だ」
「え?この人並中に通うの?」
驚いたようにリボーンと少女を交互に見つめるツナ。
そう言えば…と、少女は今更ながらに思い出す。
「10代目、私は紅です。雪耶紅。明日から宜しくお願いしますね」
「え…日本人?」
驚いた様子の彼に、少女…紅は、見えませんかと苦笑を浮かべる。
そして、自身の髪の裾を指で摘んでこう言った。
「ハーフなんですよ。イギリス系の。どちらかと言うとそっちの血の方が濃く出たらしくて」
それでこんな見た目なんですよ、と彼女は笑った。
その花開くような柔らかい微笑みは、ちゃんと好きな人の居るツナにとっても見惚れるに十分なものだ。
マフィアなどと言う恐ろしい単語とは無縁に思えてならない。
ひょっとしてリボーンと知り合いというのは嘘なのでは…と思えてきた。
「あ、センセ。新しいの改良してきましたよ」
「おぅ。助かるぞ。見せてくれ」
「ちょっと待ってくださいね。確かこの辺に…」
彼女は小さな手を差し出すリボーンに背を向け、自身の荷物(大き目のキャリー)を開く。
その中に所狭しと入っていたものに、ツナは軽い眩暈を覚えた。
好奇心で中を覗くものではない、覗かなければ彼女はきっと平和に生きてきたのだと自身を誤魔化せたのに…。
「あ、これです。閃光手榴弾。爆発しないんで、どちらかと言うと閃光弾ですけれど」
「効果は試したのか?」
「はい!さっき丁度使う機会があったので。あの人は適応力がいいので常人より早いとして…普通の人で2分って所ですね」
因みに、あの人と言うのは言うまでも無く先程一戦交えてきた雲雀恭弥である。
実のところ、紅はこの閃光手榴弾を使った後草陰に身を潜めてストップウォッチを片手に彼を観察していたのだ。
早い話が実験台である。
「それと―――頼まれていた筋肉痛を和らげる薬です。酷くなければ身体を動かせる程度には回復しますよ」
「助かるな。よし、ツナ。今から腹筋1000回だ」
「はああ?何でそうなるんだよ!」
「…死ぬ気で町内マラソンしたいのか?」
そう言って銃を構えられればせざるを得ない。
何が悲しくて、下着一枚で町内を走り回らなければならないのだ。
ご近所さんの貴重な噂のネタになってやるつもりのない彼は、即座に腹筋を始めた。
そんなツナを眺めつつ、紅はリボーンにひそひそと話しかける。
「死ぬ気弾でマラソンって難しいですよね?マラソンしなかった事を後悔するとは思えませんし」
「はったりだぞ。ツナは死ぬ気弾が嫌いだからな」
「…左様ですか」
そう答えつつも、紅は口元に苦笑を浮かべている。
変わらないな…とどこか懐かしい感覚を覚えた。
そして、先程開いたキャリーの中身の説明を再開する。
ツナのためにリボーンを止めてやろうと言うつもりは全く無いようだ。
翌朝、紅は未だ眠りたいという身体の訴えを無視して準備に掛かる。
時差ぼけと言うのは何とも面倒な現象だ。
未だぼやける思考で、今日の日付を思い浮かべた。
日付は平日で、世間の学生は自身の本業をまっとうすべく学校へと向かう。
無論、彼女自身も一応『学生』に分類されるのだから、行かないわけにもいかないだろう。
案内してくれると言ったツナを丁重に断り、学校までの地図だけを受け取った。
「………また学生服に身を包む日が来るとは思わなかったな…」
そう呟きつつ、制服に身を包む。
そこで、制服が半袖である事を思い出す。
「タトゥーがぎりぎり見えるか…」
少し動けば、袖口から二の腕に刻まれたタトゥーが見えてしまう。
その事実に舌を打ち、棚の上に追いやっていた救急箱から包帯を取り出す。
右腕をブラウスから抜き去ると、そのタトゥーが露になった。
黒と青、そして赤を基調にした、蝶が右鎖骨の上に載せられている。
それが尾を引くように二の腕の中ほどまで風を連想させるような模様が描かれていた。
背中の肩甲骨の少し上辺り…丁度、鎖骨の裏側にも同じような蝶のタトゥーがある。
シンプルな作りの化粧台の鏡にそれが映っているのを見て、紅はそれに手を這わせる。
派手過ぎず地味すぎず…どちらも彼女の陶磁器のように白い肌に良く映えていた。
2年の付き合いとなれば、それもすでに自分の特徴のひとつのようになっていた。
「っと。時間も危ないね」
思い出したように壁に掛かっている時計を見上げ、用意した包帯を片手で巻いていく。
二の腕のそれをすっかり隠して尚余りある事に気づくと、ついでに鎖骨の辺りも覆うように一周させた。
端の始末を終えるとブラウスに袖を通す。
腕を上げた時に包帯は見えるが、タトゥーが見えているわけではないので咎められる事はないだろう。
「よし」と呟き、そして腕時計を見る。
パールホワイトの文字盤の上に薄く浮かんだ銀の月。
その上を流れる秒針、そして両の針の位置を確かめ、慌てて壁際に置いていた鞄を持ち上げた。
サイドボードの上に置いてあった携帯を引っ掴んでそのまま玄関へと走る。
地図によれば、学校までは歩いて10分と結構近い。
マンションの5階に位置する彼女の部屋からは、その校舎が見えた。
ここに決めた理由はセキュリティー面で優れているから。
4階で止まっていたエレベーターを5階まで呼び、紅はそれに乗り込んで壁に背中を預ける。
携帯のメールボックスには『未読メール 1件』と表示されていた。
その中身を開いて目を細める。
返信しておこうか、と指を滑らせたところで、エレベーターの無機質な電子音が1階への到着を知らせる。
「返事は後回し、か」
小さくそう呟くと、自分の為口を開いてくれているエレベーターから降りる。
すでに高く昇った太陽が瞼に落ち、思わず腕で影を作る。
眩しいとは言わないけれど、建物内の明るさに慣れていた瞼には少々刺激的だ。
だが、慣れてしまえば何の事は無い。
無意識のうちに持ってきていた地図を見下ろし、紅はこれから毎日歩く事になるであろう通学路を進んだ。
06.08.18