逢瀬はごく突然に 後編
60万Hit感謝企画
「…お前は厄介ごとばかり運んでくるね、まったく」
「すみません、師範。文句は全部コエンマに言ってください」
紅が幻海と話している間、彼は襖の所にもたれかかって彼女を眺めていた。
柔らかい笑みを浮かべる紅。
佐倉とは他人の空似のようにも思えた。
抱きしめた身体の柔らかさや、その愛おしさ。
慣れ親しんだ香。
名を紡ぐ口唇の動き、自分を眼に映した時の表情。
――― 何一つ相違ない。
それなのに、笑顔を浮かべる対象が変わっていた。
「蔵馬?」
いつの間に傍らに寄っていたのか、紅は彼の顔を覗き込む。
思考に身を任せていた蔵馬は近くにあった茶褐色の目を見つめ返す。
無言のまま、彼は紅の髪に手を伸ばした。
佐倉とは長さも色も違うそれにサラリと指を通す。
首筋に流れ落ちるそれに、紅はくすぐったそうに身を捩った。
「何がお前を変えた?」
「…え?」
「お前が紅だと言う事は認めよう。だが、紅であって佐倉ではない。…何が変えたんだ…」
「蔵馬…?」
鋭い眼差しで紅を射抜く。
向き合ったまま掴まれた右腕が軋む。
どれくらいの間そうしていたのかはわからない。
呼吸すらも危険と思えるような空気の中、口を開いたのは蔵馬だった。
「――― 動くな」
その言葉は紅に対してではなかった。
人の気配を感じた方を向けば、同時に視界の端を何かが掠めて行く。
それは蔵馬の得意武器、ローズ・ウィップだった。
「「うわっ!!」」
「―――っ!」
三種類の声色が耳に届く。
その三人が立っていたであろう場所に、大きく亀裂が入っていた。
幻海師範の家なのに…と言う紅の言葉は聞こえていないだろう。
「あっぶねー…。おい、蔵馬!!急に何しやがるんだ!!」
訪問者の一人、幽助が声を上げた。
見知らぬ男に名前を呼ばれたのが不愉快だったのか、蔵馬は眉を寄せる。
紅の腕を解放してローズ・ウィップを振るおうとした。
「ストップ。彼らを攻撃すれば後悔するのはあなたよ、蔵馬」
不可解だ、と言う視線を向ける彼を一瞥して、紅は三人に向き直る。
「とりあえず、居間にでも入ってもらいましょうか」
そう言って三人を連れて廊下を歩く。
「何でここに?」
「浦飯の所に幻海のばーさんから電話が入ったんだよ、なぁ浦飯」
「おう。んで、来てみれば殺気立った蔵馬がおめーを押さえつけてた。
だからとりあえず止めに入ろうとしたんだけどよ…」
そう言って幽助は床に入った亀裂を見下ろす。
少し反応が遅れていれば致命傷を負う事になったかもしれない。
「…おい、どう言う事だ。何故蔵馬が妖狐に戻っている」
壁にもたれかかったまま沈黙を保っていた飛影が口を開いた。
彼の目は蔵馬を睨みつけている。
「…原因として考えられるのはコエンマね。今の蔵馬は好戦的だから挑発しないで」
すでに睨み合いになっている二人を見て、紅は溜め息を落す。
どちらが危ないから、と言うわけではないが屋敷の事を考えれば取るべき行動は限られてくる。
「蔵馬。飛影の目付きの悪さは生まれつきだから一々気にしない方がいいわ」
飛影と蔵馬。止めるならばどっち?と聞かれれば、紅の場合は迷う事なく蔵馬を選ぶだろう。
彼女はそれを実行に移したまでだ。
物言いたげな飛影の視線はこの際無視するしかない。
「何でコエンマが関係してるんだ?」
「これ」
そう言って紅は粉薬のようなものを持ち上げる。
「多分、時戻りの薬草だと思う」
「何だそれ」
紅の手からそれを取ると、薄い袋の中に入った粉末を見つめる桑原と幽助。
封を切ろうとしている彼らに、彼女は焦る事なく言った。
「匂いだけでも三十年ほど時が戻るから気をつけた方がいいわよ」
二人は絶句したまま慌ててそれをテーブルの上に置いた。
そんな彼らに苦笑を浮かべる紅。
それから昨日の一部始終を語りだした。
要約すると、この薬草の粉末はコエンマから『日頃の褒美』と称して受け取ったらしい。
それを蔵馬に伝えると彼はそれを調べた。
さすがの彼も、粉末にされたそれを見ただけではわからなかったらしい。
仕方がないので視覚で調べるのは諦め、別の感覚器官を使う。
この場合生かされるのは聴覚ではなく嗅覚。
結果、一日経った彼は三十年前…つまりは妖狐の時代にまで時を戻してしまったのだ。
「…っつー事は何か?コエンマが原因って事か?」
話を聞いた幽助の第一声はこうだった。
「…だな」
彼の横で湯のみを啜り、桑原も同意する。
もう一人の訪問者である飛影は我関せずと言った様子で目を閉じている。
「で、そのコエンマと言う奴はいつになったら来るんだ」
黙り込んでいた蔵馬が口を開く。
紅は彼の言葉に「そう言えば」と時計を見上げた。
一時間で、と言ってから長針はすでに二度ほど文字盤の数字全てを回っている。
「…騒がせて置いて遅刻とはね…いい度胸してるわ」
口角を持ち上げて紅は薄っすらと笑う。
彼女を怒らせればどれほど危険かと言う事を、幽助と桑原は身をもって経験している。
そんな紅の笑みに背筋を逆立たせた。
目にしても平然と彼女の隣にいられる蔵馬に、尊敬を滲ませた眼差しを向ける二人。
しかし―――と二人は顔を見合わせる。
考えている事は同じのようだ。
妖狐の姿の蔵馬を見るのは今回で三度目。
まだ慣れるには時間が足りないと言うのが現実だ。
そしてそんな中、彼らはある事実を知った。
それは―――
「なぁ、蔵馬…」
幽助がそう呼べば、一応彼の視線は幽助の方を向く。
だが、返事と呼べるような言葉は何一つ発せられない。
何か話しかけようとしたのだが、幽助は口を噤む事にした。
「紅、本当に蔵馬なのか?」
反応を見た桑原が紅に問う。
蔵馬が起こしたのは反応などと言う生易しいものではなく、明らかな殺気である。
飛影すらも思わず閉じていた目を開くほどの。
「蔵馬…お願いだから私の名前を呼ばれたくらいでそんなに殺気立たないで…」
「……努力はしよう」
――― 妖狐蔵馬は異様なまでに紅を大切にしていると言う事。
名前を紡がせる事すら『気に食わない』どころではなく『不愉快だ』と殺気立つほどである。
これには二人も苦笑を浮かべるしかなかった。
それから半時間して、幽助たちも帰っていった。
何のために来たのかと聞かれれば答えを探すのは難しい。
幻海も出かけているのか、屋敷の中はしんっと静まっていた。
そんな沈黙を破るように紅は口を開く。
「ねぇ、蔵馬」
「どうした?」
「戻りたい?」
ベッドにもたれるようにして並んで座っている紅と蔵馬。
彼女はその言葉を口にすると彼の肩に頭を傾けた。
「…ああ」
「……そっか」
否定されても困るのだが、肯定も紅を悩ませた。
今の自分が必要ないと言われているような錯覚を起こす。
「お前は変わったな。
盗賊仲間ともあまり関わろうとしなかったお前が笑って言葉を交わすなど…信じられん」
変わったのは蔵馬の方だ。
紅はそう言いたかった。
しかし、今の彼にそれを言っても伝わらない。
「俺だけを映していたお前はいなくなってしまったらしい。戻りたいと思うのは当然だろうな」
「違う…今でもちゃんと蔵馬だけだから…っ」
紅は蔵馬の白魔装束を縋るように握り締めた。
彼はその端整な顔に悲しげな笑みを浮かべ、彼女の髪を撫でる。
「わかっている。紅は…佐倉はそうだからな。楽しげに笑う姿も悪くない。俺は未来のお前を待つとしよう」
「蔵馬?」
「……時間だ」
「――― っ!」
「…また、後で」
柔らかい笑みを作り、蔵馬は羽のように軽いキスを彼女の唇に落す。
そして、そのまま崩れ落ちた。
慌てて抱きとめた彼の身体が変化を始める。
何とかベッドの上に寝かせた頃には、美しい銀色だった髪は赤みを帯びた黒色に戻っていた。
顔もいくらか幼く見える。
彼の頬を撫で、紅は呟いた。
「私も待ってるわ。あなたが人間界へ下りて、南野秀一となるまで」
眠る蔵馬にそう語りかけ、静かに唇を重ねる。
姿形は変わっても、一つだけ変わらないものがあった
05.08.15