逢瀬はごく突然に 前編
60万Hit感謝企画
「おい、ここは何処だ?」
今しがた起きたばかりとは思えないような冷え切った声が紅の耳に届く。
彼女は静かに溜め息をついた。
爽やかな朝。
「まぶし…」
紅はゆったりと身体を起こした。
不意に感じる自分以外の気配。
「そっか、昨日は蔵馬が来てたんだっけ」
寝ぼけた頭でぼんやりと昨日の事を思い出す。
試験前だからと言う事で彼と共に遅くまで教科書と向き合った。
とは言ってもそれはただの口実で、本当はお互い一緒にいる時間が欲しかっただけだ。
眠気に身を任せて、丑三つ時前には彼と共にベッドに入った。
まぁ、朝っぱらから口に出せないような事は何一つなかったのだが。
視線をテーブルの上に広げたままの教科書から窓へと向ける。
カーテンに遮られた日の光は柔らかく二人の元まで届いていた。
「もう起きるか…」
結構な時間だろうと思い、隣に眠る彼を振り返る。
あまりにも慣れすぎた彼の気配は、その姿を映すまで変化に気づかせなかった。
「く…らま…?」
彼女の声に気づいたのか、ゆっくりとその切れ長の目が開かれていく。
驚きに見開いた彼女の眼には、美しい銀色の髪をシーツに流す妖狐蔵馬の姿が映りこんでいた。
そして時間は冒頭へと戻る。
恐らく射抜くような彼の視線を受けて溜め息をつける者など、この世に彼女しかいないだろう。
それが不愉快だったのだろう。
彼の形の良い眉がピクリと吊り上げられた。
僅かに顔を動かした事により、肩の辺りを銀糸の様な髪が流れる。
何がどうなったのかは知らない―――と言いたい所だが、生憎紅には事の原因に検討がついている。
落ち着き次第あの男の所に押しかけよう、そう心の中で決めた。
「一応聞くけれど…。蔵馬よね?」
恐る恐る、などと言う可愛らしい行動は紅には似合わない。
毅然とした態度で彼女はそう問いかけた。
あくまで形だけの問いかけである。
答えはわかりきっているのだから。
「何者だ?」
彼…蔵馬の警戒心が強まった。
肌を刺すような妖気の放出に、紅は「この辺一体の妖怪避けになるかな」と場違いな事を考える。
いつまで経っても警戒を解こうとしない彼に、紅は溜め息をついて口を開く。
「紅」
短くそう紡げば、蔵馬は驚くほどに反応を示した。
「またの名を佐倉。何者かと聞かれて答えられるのはこれくらいね」
「嘘をつくな」
「本当よ。私の名前は紅。あなたは誰よりもそれをわかってい―――」
“わかっているはず”と言う言葉が最後まで紡がれる事はなかった。
クルリと反転する視界。
背中に感じる布団の感触。
首筋を痛いほどに押さえつける、彼の腕。
組み敷かれた状態のまま、紅は静かに蔵馬を見上げた。
彼の眼には怒りが宿っている。
「紅は俺の妻だ。その名を人間如きが語る事は許さない」
彼はその姿が妖狐に戻っただけではなく、記憶までも退行してしまったらしい。
南野秀一としての記憶のない蔵馬にとって、人間の姿をとる紅は自らの知る紅ではなかった。
どうした物か、と紅は内心溜め息を漏らす。
先程まで感じていた痛みは、今では皆無と言っていいほど感じない。
無意識のうちに彼がその力を緩めているからに他ならないのだが…感情的になっている彼は気づかない。
「好きに確かめればいいわ」
そう言って紅は微笑んだ。
目を見開く蔵馬を前に、紅は彼の頬に手を伸ばす。
秀一の時よりも若干低めの体温に触れれば、それを拒むようにほんの僅かに身を引く。
そんな彼の行動に気づかなかったことにして、紅は彼の頬を挟み込んだ。
佐倉よりもいくらか可愛らしい容姿を持つ見知らぬ彼女。
しかし、その微笑みは彼女と同じ物だった。
自分を見下ろしたまま動かなくなってしまった彼を見上げ、紅は困ったように笑みを変化させる。
少しだけ悩んだ後、彼女は上体を起こした。
その背を支えるように手を添えたのは恐らくは無意識の行動だろう。
クスリと笑った後、紅はそのまま唇を彼の耳に寄せる。
吐息がくすぐったいのかピクリと動くそれに笑みを刻み、唇に名を乗せた。
「蔵馬」
それをきっかけに、支えるように添えられていた腕は紅の身体を抱きしめた。
ゼロになった距離が人間の匂いに隠れていた彼女本来のそれを届ける。
「………紅」
囁かれた言葉に紅は嬉しそうに笑った。
「俄かに信じがたいな…」
紅の説明を聞いた蔵馬が溜め息混じりにそう言った。
それも尤もだろう、と紅は苦笑を浮かべる。
「その…コエンマと言うヤツに渡されたのは恐らく時戻りの薬草だろう」
「うん。私もそう思う。蔵馬が戻ってしまったのはその所為ね」
「俺にとってはこれが本来の姿なんだがな…」
戻ってしまったと言う言葉に対して蔵馬が答えた。
秀一としての記憶を持たない蔵馬にとってはごく当然の事と言える。
彼が動く度に揺れる銀糸を、彼女は懐かしげに見つめていた。
「さて、とにかく原因に話を聞かないとね」
そう言って紅は蔵馬の隣から立ち上がる。
壁にかけてある鏡の前に立ち、その枠を操作する。
頭に響かない程度の呼び出し音が暫く続いた後、その鏡に例の彼が映った。
『何だ、佐倉。ワシは忙し…』
そこまで言って、コエンマは口を紡ぐ。
見惚れるような紅の笑顔を前に、彼は面白いほどに青くなった。
彼女の向こうには訝しげに自分を見つめる妖狐の姿がある。
「何が言いたいのかはわかるわね?一時間でここに来てちょうだいね」
にっこりとそう締めくくり、紅は一方的に通信を切った。
05.08.14