Restart
朝は嫌いだ。
優しい夢は悲しいし、苦しい夢には吐き気がする。
夢を見ずに眠れるのは、馬鹿みたいに修行をして、泥のように眠るときだけ。
忘れるな、忘れるな―――戒めのように、夢がコウを蝕む。
熱いシャワーを頭から浴びて、顔を流れる水をそのままに深い呼吸を繰り返す。
「忘れない―――絶対に、今度こそ」
生まれたままの肌を滑る熱い湯は、その肌に刻まれた傷跡を辿る。
決して多くはないけれど、海軍にはいってから消えない傷跡は増えた。
しかし、その中でもひときわ目立つ下腹部の横一文字以上の大きな傷はない。
コウが10歳のときから、ずっと存在するその傷跡を指先でなぞる。
懐かしむようなその目には、愛しみの情が浮かんでいた。
「今度こそ―――あなたに、会いたい」
コウは17歳になった。
「ポートガス・D・エース…」
手渡された資料を見て、コウはそう呟いた。
スペードの海賊団として旗揚げした彼が、白ひげ海賊団に入った。
そんな噂話は、コウの耳にも届いていた。
「興味ある?」
「…幼馴染です」
どこかの戦闘の合間に取られたのだろうか、その写真はエースの横顔を写していた。
報告書に添えられたその写真を指先でなぞる。
「海軍はそろそろ、白ひげ内部の情報を掌握しておきたいらしいね」
直属の上司である青雉、ことクザンはコウに向かってそう告げた。
書類の内容は、そのことが大部分を占めているのかもしれない。
大将戦を終えたコウを、クザンが引き取ってからもう二年だ。
推薦どころか、彼自らコウを大将付きの部下として、少将の地位に引き上げた。
少将ともなれば部下や部隊を率いるのが通常であるが、彼女は大将付きとして単身でクザンの下にいた。
というのも、彼女が下に就いてからというもの、クザンのサボり癖による仕事の影響が激減したのだ。
被害を被っていた側からすれば、その成果こそ大きいと言える。
結果として、コウはクザンの目付け役として、少将でありながらも自由の利く立場にいた。
「海軍を、白ひげに潜り込ませるのですか?」
「そうなるだろうね」
「あれだけ部下を家族と扱う白ひげに入り込むとは…無謀、では?」
「そこはスパイの腕前次第かな」
まるで他人事と言った様子のクザンに、コウは悩むように口を噤む。
やがて、意を決して顔を上げた。
「クザン大将、私が行きます」
「…何言ってんの?」
「エースとは幼馴染です。もう7年前ですが―――彼も、忘れてはいないでしょう」
エースは仲間を大切にする人間だ。
幼い頃に別れたとはいえ、再会したコウを無碍にはしないだろう。
そこに付け入る隙は十分にある―――コウはそう説明した。
その説明を聞きながら、口を挟むことなくじっと彼女を見つめていたクザン。
―――やはり、この眼は苦手だ。
何を考えているのか、その思考が読めない。
何も考えていないようでいて、全てを見透かされているような気さえする。
「白ひげを騙そうって?ほんとにできると思ってるの?」
「やります」
「ばれたら死ぬよ?」
探るような眼差しに、コウは苦笑した。
死ぬことは怖くない。
コウが怖いのは、自分の命を失うことではない。
「死ぬつもりはありません」
「覚悟の上です、と言わないあたりがコウらしいねぇ」
クザンはそう言って笑った。
席を立つ彼に続き、執務室を後にする。
廊下を歩けば階級の低い海兵たちが敬礼と共に道を譲るのが見えた。
そうして廊下を進んでいた、そのとき。
ピリ、とその場の空気が一瞬だけ、鋭さを帯びた。
コウの前を歩くクザンは、彼女よりも早くに気付いていたのだろう。
廊下の向こうから歩いてくる人物に。
ファイルを腕に抱く指先に力が入る。
「おー、丁度良かった」
すれ違うだけなのかと思いきや、クザンはその人物、赤犬を呼び止めた。
じろり、と彼に視線を返し、コウを一瞥していく眼差しにぐっと奥歯を噛む。
「何じゃ」
「この間の白ひげの話だけど―――うちの部下を推薦しようと思って」
そう言うと、クザンは立ち位置をずらしてコウの隣に立つ。
突然赤犬、サカズキの前に立たされることとなったコウは思わず息をのむ。
しかし、思い出したようにぱっと敬礼を見せた。
「モンキー・D・コウ、です」
「ガープんとこのガキか」
「優秀なのよ、この子。下手に経験を積んだ海兵を送り込むより上手く馴染むと思うんだよねぇ」
「………」
サカズキがじっとコウを見下ろす。
睨み付ける、と言っても過言ではないその鋭い眼光に、明らかな威圧が乗った。
その場の空気が変わり、それが覇気であると気付く。
覚えのあるサカズキの覇気に反応しようとする身体を叱咤し、じっと彼に視線を返した。
ただの廊下に充満した覇気に、何事かと集まった海兵たちが、廊下を覗き込んでは「とばっちりは御免だ」と慌ただしく立ち去っていく。
「…根性だけは一人前じゃの」
ふ、と覇気が消え、サカズキが視線をそらした。
「その気があるなら、明日から一か月、わしが預かるけぇ覚悟せい」
そう言い残し、サカズキはその場を去って行った。
コウは呼吸すら忘れているような様子でギュッとファイルを握りしめ、その背中を見つめる。
口を開けば、言うべきではない言葉が、指先を緩めれば、手が刀を握ってしまう気がした。
不意に、コウの視界が暗闇に覆われる。
ひんやりとした手の感触に、それがクザンの手の平であると理解した。
「…そんな眼、するもんじゃないよ」
「………すみません」
「明日からの一か月は大変だからねぇ。まぁ、修行だと思って頑張りな」
「…はい。クザン大将、仕事してくださいね」
「はいはい」
飄々と歩き出す彼は、果たしてどこまで気付いているのやら。
ここからのひと月は正念場だ―――そう、自分に言い聞かせるようにして、クザンの後に続いた。
18.07.07