Carpe diem --- 025
天空闘技場に来るのは久しぶりだった。
「ほら」
コウはヒソカから差し出された書類に軽く眉を寄せた。
「参加するつもりはないんだけど」
「いいじゃないか。ここにいる間暇になるだろ?」
「家の仕事で忙しいし…って、あぁ…そう言う事」
何かを期待したヒソカの目に、彼が何を考えているのかがわかってしまった。
彼は自分と戦いたいのだ。
もちろん、命の取り合いはしないだろうけれど。
こう言う場所でなければコウが納得しない事もわかった上で、手続きをさせようとしている。
「…もう、仕方ないわね。言っておくけど、殺し合いはしないわよ」
「OK。善処するよ★」
その語尾が気になるんだ、と思ったけれど、彼の気紛れな性格には慣れているので口には出さない。
その代わり、彼の手から書類を受け取って必要事項を記入し始めた。
「順々に進むのが面倒なのよね、ここ」
「いいじゃないか。コウなら一回戦の後はきっと100階以上だよ」
「ヒソカの場合は一気に200階に上げた方が下の階の人が平和だわ」
尤も、ヒソカを楽しませることのできる人間など一握りだろうから、苦しまずに一瞬で終わるだろう。
「ねぇ、ヒソカ?」
「うん?」
「200階に上がるまで、誰も殺さないでって言ったら…どうする?」
コウがそう問いかけると、ヒソカは少し考えるように口を閉ざす。
「コウが望むなら、そうしてもいいよ」
「なら、頑張ってみて。達成できたら、200階であなたと戦うわ」
そう断言した彼女に、ヒソカが笑みを深めた。
約束だよ?と確認する彼に、一度、けれどしっかりと頷く。
場内アナウンスで呼ばれ、コウはリングに立った。
流石に若い女性と言う事もあり、飛びかうヤジには下世話な声も少なくはない。
そのヤジの主らが悉く泡を吹いて倒れたらしいが、コウには関係のないことだ。
コウの対戦相手は膨らんだ筋肉の持ち主だった。
この世界では見た目に筋力が比例しないので、見かけなど何の意味も持たない。
目の前に立った時点から、コウは相手が大した実力者ではない事を悟っていた。
試合開始の合図が聞こえ、相手の男が床を蹴って走り出す。
大きな身体をしている割には、まぁまぁの速度だが、所詮はアマチュア。
向かってくる男を最低限の動きでひょいとかわし、ついでに足を引っ掛けて転倒させる。
そして、転がった男をそのまま蹴り飛ばしてリングの外へと放り出した。
少し加減が足りなかったのか、リング四つ分飛んで観客席にめり込む。
「…あら。無事かしら」
まさかそんなに飛ぶとは思っていなくて、きょとんとした表情を浮かべるコウ。
そんな彼女に審判が近付いてきた。
「随分昔に200階まで登っているようだな。180階に行ってくれ」
「どうも」
千切り取られた結果を受け取り、コウはリングを降りて行く。
換金口への出口へと向かう途中、観客がざわりと揺れた。
何となく原因を予想しながらそちらを見れば、案の定ヒソカが数多の視線を集めている。
彼の足元には人が転がっている。
手足がおかしな方向を向いているけれど、生きているようだ。
彼を相手に手足がなくなっていないだけでも良しと言ったところか。
まずは一人―――ヒソカは、コウの約束を守った。
「ヒソカ、何階?」
「190階」
「あら、じゃああと一回で約束を達成しちゃうのね。流石に一気に200まで飛ばすのは問題があるのかしら」
「どうだろうね。コウが180階の評価も甘いと思うよ?」
「私はいいのよ。のんびり行くから」
そう思っていても、きっと審判の判断によっては次で200階に行けと言われてしまうだろうけれど。
コウはもらった賞金で買ったジュースの空き缶をゴミ箱に捨て、身体を伸ばす。
そろそろ移動しなければいけない。
エレベーターに乗って自分の180階とヒソカの190階のボタンを押す。
一般的なエレベーターよりは少し速いが、180階までは時間がかかる。
エレベーターの中に二人以外の人間はいなかった。
皆、ヒソカを避けて通っているからある意味では当然と言えるだろう。
暇を持て余すように、コウはエレベーターの手すりに腰を預けた。
ガラス張りの壁の向こうには、高所恐怖症の人間ならば卒倒するような風景が広がっている。
「ヒソカは…どうして人を殺すの?」
窓の外を見つめるヒソカの横顔を見て、コウはそう問いかけていた。
彼女自身も、この質問が口を衝いて出た事に驚いている。
「…血の色が僕を繋ぎとめる気がする、かな」
「………ごめん。それを仕事にしてる私が聞ける事じゃないわね」
「コウ、君は何故人を殺す?」
逆にヒソカからそう問いかけられたコウは、咄嗟に答えを失った。
仕事だから、と答えられなかったのだ。
「…それが、当然だったから…ね」
あぁ、そうか、と思う。
理由なく人を殺さないで―――昔、コウはヒソカにそう言った。
けれど、何故、と思わなかったコウもまた、彼と同じだった。
「ごめんなさい。私、あなたに何かを言える立場じゃなかった」
「―――少なくとも」
ヒソカは、少しの沈黙を置いて言う。
「少なくとも、他の誰も、僕にそれを教えようとはしなかったよ。殺さなければならないと思っていた」
窓の外を見つめていた彼がコウを振り向いた。
そして、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
彼の手が、頬に触れた。
「もしあの日君に出会わずに、今この時代で君と出会っていたら…君を、殺したいと思ったかもしれない」
これほどに彼女に惹かれたかどうかはわからないけれど、少なくとも無関心ではなかったはずだ。
その関心はいずれ執着に繋がり、彼女が自分以外の何も見ないようにと願っただろう。
むき出しの欲望を抑える術を持たず、その刃を彼女自身に向けたかもしれない。
あの日、人は殺してはいけない物なのだと、その当たり前のことを教えた彼女がいたから、今のヒソカは殺す以外の方法を知った。
殺すために手を伸ばすのではなく、その肌に触れるために手を伸ばす意味を知った。
「ヒソカ―――」
笑みを消し、真剣な眼をしたヒソカが目の前にいる。
いつもの姿とのギャップを感じながらも、コウは彼から目を逸らすことができなかった。
愛しむように頬を撫でられ、彼との距離が縮む。
彼の顔が近付き、そして―――
「大丈夫。殺してないよ」
「…そうね」
「ギリギリの所で我慢したんだ。コウと戦いたいからね」
必要以上に深い笑みが逆に恐い。
コウですら、ヒソカから漏れ出す肌を指すような殺気を感じて頬に汗を流していた。
とても良い所で邪魔が入ったのだから無理はない。
もちろん、エレベーターは本来の役目を果たしただけで、それを呼んだ人間はまさか中でそんな事が起こっているなんて知る訳がなかっただけで。
とにかく、その人は運が悪かった。
片腕と片足を失っただけで済んだ結果に感謝すべきだろう。
再び二人だけの空間になったエレベーターの中で、コウは自己嫌悪に陥っていた。
いくらなんでも場所を忘れてその場の空気に流されすぎたと反省…もとい、自分を恥じているのだ。
「(危なかった。あのままエレベーターが止まらなければ…確実に流されていた)」
その気にさせてみせて、なんて言っておきながら、一ヶ月も経たないうちにこれでは駄目だ。
そう思いながらも、自分の感情に戸惑っているのは、他でもないコウ自身。
そんな事を考えている間に、エレベーターは無事180階に到着した。
ドアをすり抜けて降りたコウは、その場でヒソカを振り向く。
彼は笑顔を浮かべて口を開いた。
「200階で待ってるよ」
「―――…すぐに、行くわ」
追われるだけじゃなくて、たまには待つ彼を追ってみよう。
気紛れだったのかもしれないけれど、ふと思ったままに答えた。
そして、彼の反応を見る前にくるりと背を向けてフロアに歩き出す。
その背中で、エレベーターのドアがゆっくりと閉じた。
10.03.26