Carpe diem --- 014
重力に逆らっているような感覚が消え、視界がクリアになった。
コウは冷静に周囲を見回す。
位置は少しずれているようだが、飛行船の中であることに変わりはなさそうだ。
独特の浮遊感がそれを教えてくれている。
どこかの個室に出たのか、それなりの広さのその場は無人。
使われた形跡がないところを見ると、空き部屋なのだろう。
その事実に到達したコウは、ありがたくベッドに腰掛けた。
三日―――言葉にしてしまうと、軽い。
けれど、とても深い経験をした三日間だったと思う。
20年前のあの日、あの年齢だったヒソカは、今の時代では自分よりも少し上か。
あのまま成長したとすれば、さぞかし男前に成長している事だろう。
「会いたいとは思うけれど…会いたくないわね」
裏切ってしまったようなものだから。
口に出してしまうと、ずん、と肩の辺りに重みが加わった気がした。
裏切りたかったわけではない、傷つけたかったわけでもない。
生きて欲しいと思ったのだと―――信じてくれるだろうか。
真新しいシーツの掛かったベッドに、ドサリと倒れこむ。
横目に見た壁の時計は、コウがこの時代を去った時から三時間後を示していた。
同じ時間の流れではなかった事は、喜ぶべき事なのだろう。
そんな事を考えていたコウは、不意に近付いてくる気配に気付く。
円をするわけでもなく、気配を読むわけでもなく。
そんな状況で、気付く気配。
それは、同じ血を分け合った彼だけだ。
バンッと勢いよく開くドア、姿を見せるイルミ。
コウが身体を起こしている間に近付いてきた彼は、そのまま彼女を抱き締めた。
「…イルミ?」
「無事だね。良かった」
珍しく、イルミの声に表情がある。
心底安心した様子のそれに、コウはなるほど、と思った。
この三時間、コウの存在は完全にこの世界…いや、この時代から消えていたのだろう。
双子と言うのは不思議なもので、説明できない繋がりがある。
生まれてから常に感じていた気配が消えれば、心配するのも無理はない。
ごめん、の代わりに自分を抱き締めるイルミの背中をぽんぽんと撫でた。
程なくして身体を離したイルミは、いつもの彼に戻っていた。
普通の人には表情の読めない顔になって、コウを見つめる。
「どこに行ってたの?」
「…44番の所為で20年前にタイムスリップ?」
答えるのに間をおいたのは、彼を“ヒソカ”と呼ぶことに抵抗を覚えたから。
この三日間でコウにとってはあのヒソカより、少年のヒソカの方が近くなった。
「20年前か…俺たち、4、5歳だよね。確か、その頃にコウの口座からごっそり預金が抜かれてた」
「あ、それ。私の所為みたい」
「そうなんだ?」
「ええ。あの時ゾルディックの口座が被害にあった責任を取った人…気の毒だったわ」
絶対に手を出されてはいけない家の口座に手を出された所為で、責任者が数名処分されたらしい。
コウ自身はお金が命と言うわけではなかったから、必要ないと訴えてみたのだが…。
彼女よりも両親と祖父母が怒ってしまって、処分は免れなかった。
命までは取っていないと思いたい。
そんな事を考えていると、ふとイルミの手がコウへと伸びてきた。
逃げるわけでもなく彼の手を頬に受ける。
サラリ、と耳の辺りに掛かっていた髪が彼の手の甲に払われた。
「ピアス―――なくなってるね」
髪に隠れていたはずなのに、何故気付いたのだろうか。
そんな疑問が脳裏を過ぎったのは一瞬だ。
「未来に託してきたの」
「…これに支えられてるって言ってたのに、大丈夫なの?」
「平気よ。私はもう、子供じゃないから」
自分の行動に悩み、歩みを止めてしまった子供ではない。
救われ、支えられてきたお蔭で、ちゃんと前を向いて歩いている。
だから、今度はあの将来ある少年を救ってくれるようにと―――宝物を、託した。
コウが三日間の事を考えている間、イルミは別のことを考えていた。
「コウ」
彼女を思考の世界から呼び戻す。
何、と首を傾げる彼女を見てから、指先をドアの方に向けた。
「ヒソカと話してきたら?」
「え゛。出来ればもう関わりたくないんだけど」
「でも、ヒソカは―――」
『第三試験の会場に到着しました。受験生の皆さんは速やかに飛行船搭乗口へとお集まりください』
船内アナウンスが聞こえ、二人の間に沈黙が下りる。
ぶつっとマイクの音が途切れると、彼らはどちらともなく立ち上がった。
「とりあえず、この話は保留ね。イルミも準備しないといけないし」
「ん。持ってて」
水を掬うようにした手の平に無数の針が載る。
一つ顔に刺すごとに骨格が変わる様をぼんやりと眺めていた。
数秒後には完全に顔が変わっていて、残念だと溜め息を吐き出す。
どうせなら、もっといい男に変形すればいいのに、と思えてならない。
「先に行くわ」
「うん。またね」
一緒に居るところを見られたくないと思っているコウに考慮して、イルミは部屋の中に残った。
そして、搭乗口へと向かって歩き出す。
イルミが何を言おうとしていたのか…この試験が終わってから、ゆっくりと話をしよう。
この時には、そう考えていた。
ガコン、と足元が沈んだ。
なるほど、仕掛け扉か。
そんな事を考えながら態勢を整えて着地―――しようとしたが、出来なかった。
ブーツの踵がつるりと滑ったからである。
他の、例えば念を覚えていないような受験生だったならば、間違いなく傾斜を滑り出していただろう。
要は滑り台のようになっているのだ。
傾斜となっている部分を強めに踏みつければ、床が崩れた。
少し窪んだそこで態勢を整えるコウ。
「…んー…滑れってことかしら」
『受験番号302番、聞こえるかね?』
そんなアナウンスが聞こえ、コウは自身の番号を確認した。
自分の番号を意識した事がなかったため、覚えていなかったのだ。
イルミと連番になっているそれを確認し、聞こえているわ、と答える。
『君は実に運が良い。その道は一階までの直通滑り台だ。滑れば8時間ほどで下に到着する』
安心して滑りたまえ、とマイクの向こうの男が告げた。
8時間もただ滑っているだけとは、なんて面倒な試験だろうか。
しかし、コウは試験に対して楽さも困難も求めていない。
滑っているだけというならば、そうしようではないか。
「…わかったわ」
そう答えてから、陥没したそこから一歩を踏み出す。
傾斜は何で出来ているのかよくわからないが、摩擦は限りなくゼロに近いようだ。
すぐさま滑り出す身体。
このまま滑り続ければ、確実にブーツの底がなくなる。
既にオーラで保護しているのでその心配はないけれど。
凄い速度で滑り落ちているにも関わらず、コウはまるで歩いているような姿勢を崩す事はない。
滑って、滑って、滑り続けて。
立っているのも面倒になった頃、緩やかな右カーブが直線になった。
ん?と思って視線を落とせば、少し向こうに明かりが見える。
漸く、出口らしい。
徐々に、近付くにつれて大きくなってくる四角い光の枠。
やがて―――ペイッとゴミのように放り出された。
「………人を何だと思ってるのよ」
くるんと空中で身体を回し、足から着地する。
今度は水平な床に降り立つ事ができた。
振り向いた先、20メートルほど上には、自分を吐き出した穴がある。
普通なら、あの速度でこの高さから放り出されれば、それだけで怪我をするのでは、と思った。
何もしなくて良いのだから最後くらいは自力で危険を回避しろと言う事だろうか。
『受験番号302番、所要時間8時間2分』
「二番目はコウなんだね」
聞こえた声に、コウは溜め息を吐き出した。
09.11.25