Carpe diem --- 013
夜が明けた。
疲れの為か深く眠っているヒソカを横目に、音もなく身体を起こすコウ。
ふと、シーツ越しに膝の上に乗せた手を見た。
「…もうすぐ時間、か」
二度、三度と点滅するように、自分の手が透けて見えた。
恐らく、間もなく念が切れるのだと言う忠告だろう。
昼過ぎと考えていたコウは、予想よりも早い展開に溜め息を吐き出した。
薄らと自身の身にまとわりつく他人のオーラ。
それは、この時代に飛んできた時と同じ感覚だ。
オーラの量から考えて、時間移動の瞬間は今から3時間ほど後。
―――早すぎる。
コウは隣のベッドのヒソカを見た。
相変わらず静かに寝息を立てている彼。
少しだけ悩んでから、彼女はベッドを下りる。
粗末なベッドがギシリと悲鳴を上げた。
素足のまま靴を履き、窓の方へと歩く。
薄いカーテン越しの空には既に日が昇っている。
数秒間それを眺めていたコウは、徐に廊下の奥にある洗面所へと歩き出した。
シャワーを終えて戻ってきたコウは、洗面所のドアを開けるなりドンと腰に鈍い衝撃を感じた。
もちろん、避ける事は出来たけれど、それが誰なのかを知っているから避けなかっただけ。
「ヒソカ。おはよう」
どうしたの、と優しく問いかけながら、柔らかい髪を撫でる。
腹の辺りに顔を埋めているため、その表情は見えない。
けれど、しっかりと回された腕が自分に縋り付いているように見えた。
何となく事情を察したコウは、苦笑を浮かべる。
彼の心配は、程なくして現実のものになろうとしているのだ。
そして、それを止める術は―――コウ自身にも、ない。
「顔を洗っておいで。食事を頼んでおくから」
あえてヒソカの顔を見ずに、そっと背中を押す。
コウの声に安心したのか、彼はそのまま洗面所に入っていった。
昨日の朝はちゃんと閉じられていた扉が開いたままなのは、聴覚的に彼女の存在を認知しているからだろう。
わざと足音を立てるようにして部屋を横切り、フロントに電話をかけて朝食を頼む。
30分もすれば、温かい食事が運ばれてくるだろうから、それを受け取ったら二人で食事だ。
残り時間で出来る事は、本当に少ない。
ギリギリまで身体を動かすのも一つだけれど―――さて、どうしたものか。
今日の予定を立てかねていた頃、漸くヒソカが洗面所から出てきた。
少しの間無言の時を過ごし、ルームサービスが届いて朝食タイム。
お互い何も言わなかったのは、何かを悟っていたからなのかもしれない。
太陽の傾き加減が、もう間もなくだと告げていた。
ヒソカと出会った場所にやってきたコウは、額に手で庇を作りながらそんな事を考える。
そんな彼女の考えを読んだのか、ヒソカがきゅっと唇を結んだ。
まるで葬式に参列しているような面持ちの彼に、何と声をかけるべきなのか。
考えあぐねて頬を掻いた手が、透ける。
もう間もなくなのだと教えるように、何度も。
その光景は、コウだけではなくヒソカの目にも届いたようだ。
絶望―――そう表現するのが、一番相応しいと思う。
「ヒソカ―――」
「駄目!」
コウが告げようとする全てを拒み、耳をふさぐ事で抵抗するヒソカは、子供だった。
自分に不利益な情報から顔を背け、背中を向ける事によりそれを回避しか反抗する術を持たない子供。
「嫌だ…。聞かない…!」
何故、こんなにも影響を与えてしまったのだろうか。
コウは目の前の幼子の反応に酷く心を痛めた。
彼の肉体を守ろうと思って起こした行動が、結果として彼の心に深い傷跡を残そうとしている。
こんな事になるならば、関わらなければよかった。
ヒソカの命を救うだけにして、手を差し伸べなければよかった。
後悔しても、もう遅い。
「コウが居てくれないなら、コウが居なくなるなら…死んだ方がいい!!」
その言葉を聞いて、頭に血が上るのを感じた。
多少の加減をしたとしても、子供には些か強すぎる張り手だ。
小さな身体が宙を舞い、瓦礫の中へと吹っ飛ぶ。
「生まれた以上、どんな人間にも死は訪れる。だけど、それを望むなんて、愚かな事甚だしいわ」
「うるさい…!死を望んで何が悪い!?こんな場所で、僕みたいなガキが一人で生きていけるわけないんだ!」
「生きていけるわけがない?そんなの、誰が決めたのよ」
フンと鼻を鳴らし、冷めた目でヒソカを見下ろす。
「私の兄弟は生まれた時からギリギリの毒薬に身体を慣らされ、夜毎に肉体に電流を浴びせられた。
一歩間違えば死んでいた。毎日をそんな風に生きてきたけど、それでも死のうとしたことなんてないわ」
瓦礫の中から起きあがったヒソカの胸倉を掴む。
顔を寄せ、息がかかりそうな距離で彼女は妖艶に微笑んだ。
「弱いなら強くなればいい。誰にも文句を言えないくらいに、強く。
他の人間を踏み越えて、ただひたすら強さを望めばいい。私はそのために、教えたのよ」
「コウ…」
「私は、君に死を望んで欲しいから強さを教えたわけじゃない。生きて欲しいから、教えたのよ」
きっかけは与えたわよ。
そう言った彼女。
どくん、と心臓が音を立てた。
感情が揺れ動いたからではない。
身体の中を熱が巡り流れる。
「―――っ!」
溢れ出たそれが、身体から迸った。
「強くなりたいなら、乗り越えなさい。そのまま垂れ流し続ければ、いずれは枯渇するわよ」
「僕を、殺すの…?」
蒸気のように溢れ出るそれが生命エネルギーなのだとすると流し続ければ危険であることは一目瞭然。
思わず悲しげな声を上げたヒソカの視界で、コウの身体が光を帯びた。
「な…!」
「あら…もう時間切れみたいね。最後まで付き合ってあげたかったけれど」
「コウ!!」
「迸るそれも、君のものである事に変わりはないわ。
意識を集中させて、身体の周囲へと留めるの。私からの、最後の助言よ」
コウは自身の耳元へと手を伸ばした。
そこにある、一つだけの赤いピアス。
ずっと彼女が身に付け、大切にしてきたもの。
これに支えられて生きてきたと言っても過言ではない。
だから今度は―――これが、ヒソカを支えてくれればいいと思う。
コウは何も言わず、ヒソカの手を取ってそれを握らせ、そして、彼女は優しく微笑んだ。
「生きて、また出会いたいからさよならは言わない。―――“また”ね、ヒソカ」
言葉が終わるのと、彼女が消えるのと、どちらが早かっただろうか。
跡形もなく消え去った彼女に、ヒソカはその場に崩れ落ちた。
死を望むなと言っておきながら、こんな状態で放って行くなんて!
なんて女だ、と悪態をつく。
そして、少年の中に一つの想いが目覚めた。
―――何が何でも、探し出してやる。
もう一度、彼女を探して、会って―――どうするかは、その時に考えよう。
「…“意識を集中させて、身体の周囲に留める”…」
自分自身に殺されて堪るもんか。
ヒソカは瞼を伏せた。
09.11.23