Carpe diem   --- 010

ヒソカは、コウの言葉を頭の中で反芻した。

―――殺さないなら、殺される覚悟をしな。

彼女の言っていることの意味はわかる。
けれど、彼がそれを躊躇った理由は、人の命を奪う事への抵抗ではなかった。








宿を抜け出したヒソカは、迷わずあの場所を選んだ。
あそこならば、きっと“居る”。
ただ無心に、流星街を目指し、そして辿り着く。
肩で息をしながら周囲を見回せば、簡単に見つけることが出来た。
そして、相手もまた、自分を見つける。
視線が絡む―――それが、合図だった。


見下した笑みを浮かべて近付いてきた男との残りの距離を、一瞬で移動する。
男の腰に提げられていたナイフを抜き、男が伸ばしていた腕を切り落とす。
そして、そのまま流れるように男の心臓にナイフを突き立て、引き抜いた。
傷口から鮮血が噴出し、ヒソカを赤く染める。


その間に要した時間は僅か3秒。
いかに、ヒソカの動きに迷いがないかが伺える数字だ。
突然の出来事に驚いている間に、仲間の一人が死んだ。
ヒソカをカモにしようと集まっていた男たちの反応は二種類。
恐怖に腰を引く者と、怒りに逆上する者。
前者を後回しにして、向かってくる後者と向き合う。
男の速度など、コウの速度に慣れた目には蝿が止まっている様に見えた。
心臓や、頚動脈―――迷わず一撃で命を刈り取っていくヒソカ。
やがて、その場には怯えて腰を抜かしていた男一人になった。
その男を見ながら、唇に付いた返り血を舐める。






男たちの身体が赤く染まるのを見ていると、どうしようもなく身体の中が疼いた。
まるで、自分を見失うような、そんな感覚。
人を傷つけた事よりも、自分が自分でなくなることのほうが恐ろしい。
けれど、この昂揚感を止められない。
ヒソカは、自らの中に殺人への快楽が生まれた事を自覚した。

「ばいばい」

にこりと笑って、ナイフを振り上げる。






振り上げた腕が、動かなくなった。

「はい、そこまで」

そんな声が聞こえ、ヒソカが目を見開く。
彼女の声だ。

「手を下ろしな、ヒソカ」

有無を言わさぬ声に、ヒソカの腕がゆっくりと下りていく。
コウはヒソカを一瞥して、男に近付く。
無言で胸倉を掴み上げた彼女は、そのままボールでも放り投げるように男を投げた。
ひゅーん、と飛んでいったそれは、やがて見えなくなる。

「向こうにはゴミの山があったから、落ちても死にはしないでしょ」

埃を払うように手をはたいてそう呟く彼女。
そして、くるりと振り向いた。
パンッと乾いた音が響く。

「…目が覚めた?」

ヒソカの頬を張ったコウは、そう問いかける。
我を忘れた興奮が、一瞬のうちに冷めた。
後に残るのは、戸惑い、そして焦り。
それすら感じない程に快楽に飲まれては居なかった。
ヒソカの目に、狂気以外の感情が宿るのを見届け、コウは心中で安堵する。
しかし、それを表情には出さず、あえて口元を引き締めた。

「自分を見失わないで」
「………」
「理性を失った時点で、君は『人』ではなくなる。私は、快楽殺人の手伝いをするつもりはないの」

この手を赤く染めさせたのが自分ならば、道を踏み外さぬよう教えるのも自分の役目だと思った。

「自らの命が危険にさらされる時ならば構わない。でも、理由なく殺してはいけない」

ヒソカに自分の想いが伝わるようにと、真っ直ぐに彼の目を見つめ、そう告げる。

「君には血を覚えさせるべきじゃなかったのかもしれないね」

一線を越えた先に必要なのは、強靭な精神力だ。
幼少期より鍛えられてきたゾルディックの人間と同じように考えてはいけなかったのかもしれない。
血の狂気に負けぬ精神力を持つ事ができるだろうか―――コウは、ヒソカの将来に不安を覚えた。

「…止まらないんだ」

ヒソカが視線を落とした。
俯いた先には、真っ赤に染まった手が見える。

「手が、頭が…命が消える瞬間の儚さを求める。血を求める!」
「なら、止めるわ」

コウの声に、ヒソカが弾かれたように顔を上げる。
涙はない。
けれど、コウには彼が泣いているように見えた。

「私が止める―――何度でも」

なんて身勝手な約束だろうと思う。
明日には消える存在でありながら、こんな言葉を紡ぐなんて。
そう思っていても、手を差し伸べなければ、彼が壊れてしまうと思った。

「抗う事を諦めないで。私の言葉を―――忘れないで」
「―――うん」

小さく聞こえた頷き。
そして、その後に続いた、ごめんなさい、と言う言葉。
その言葉にコウは軽く目を見開き、そして嬉しそうに笑った。

「宿に帰って寝ようか。今度はちゃんと寝る?」
「うん」
「よし、いい返事ね」

行こう、と手を差し出す。
それを取ろうとしたヒソカは、自分の手が真っ赤に染まっている事を思い出し、慌ててそれを引っ込めた。
そんな彼を見て、コウは引っ込もうとした手を掴む。
彼女の白い手が、赤く染まった。

「…っコウ!!」
「こんなの、洗えば落ちるわよ」

普通の汚れとなんら変わりはないのだと、そう伝えようとしていた。
腕を引いて歩く彼女を見上げ、ヒソカは滲み出そうとする涙にぐっと唇を噛んだ。
自分が耐えられなかった欲望ごと受け止めてくれる彼女。
いっそ、夜が明けなければいいのにと思った。
そうすれば、彼女が言う三日の期限が迫ってくる事もない。
逃げるような夜を睨みつけ、ぎゅっと彼女の手を握り締めた。

09.11.13