Carpe diem --- 006
走る程度の試験、コウにとっては欠伸が出るほどに簡単なものだ。
一般人とは比べ物にならない体力は、先の見えない全力マラソンにも心を折ったりはしない。
地下を抜けて、長すぎる階段を上って、湿原を抜けて。
そして、一次試験が終わった。
二次試験前半、豚の丸焼きは何の問題もない。
問題は後半の試験―――課題はスシだ。
「あ、これは無理だわ」
課題を聞くなり、コウはそう断言した。
暇つぶしに町に出ることの多い彼女は、意外とグルメだ。
ミルキは恐らく彼女の影響を受けているものと思われる。
もちろん、彼の体格は運動せずに食と趣味にこだわった結果だが。
スシが何たるかを知っていたコウは、その難しさも理解していた。
美食家の舌を納得させるのは不可能だ。
別にライセンスが必要だったわけではないから、ここで諦めても問題はない。
お相手の件は、イルミに頼むとしよう。
スシを作るよりも、今後の行動を考え出すコウ。
そうしている間に、建物の中は無人になっていた。
「あら?」
「他の受験生なら外に走って行ったわよー。一人乗り遅れてるアンタ」
「ふぅん…外に、ね」
わざわざ状況を説明してくれた彼女に軽い礼を述べてから、壁際に置いてあったパイプ椅子を開く。
その上に腰掛け、ググッと大きく伸びをした。
「…アンタ、どういうつもり?試験中よ」
先程から、何だかイライラしている女性試験官。
そんな彼女にちらりと視線を向けた。
「スシなんて、素人が握って美味しいものが出来るわけありませんよ」
「…スシを知ってるの?」
「私が知っているのは散らしズシですけれどね。まぁ、この材料を見れば凡その形には見当がつきます」
数本の包丁と酢飯、メンチの前に置いてある箸と醤油の入った小皿。
それだけ情報があれば、手の平以下のサイズの固形物である事は明白だ。
イルミは気の毒ね、と呟く。
次の仕事でライセンスが必要だから試験を受けに来たと言うのに…試験運がなかったとしか言えない。
例えばミルキがこの試験を受けていれば、もしかすると出来たかもしれないけれど。
「…と言うわけで、私は諦めます。試験が終了になるまでは自ら降りるつもりはありません」
そう答えると、それ以上は何も言わないという姿勢を見せるように、目を閉じてしまうコウ。
女性試験官、メンチは彼女の言葉に軽く目を見開いていた。
「凄い洞察力だね」
「…ヒントは与えてるんだから、全員がこう合ってしかるべきなのよ」
フン、と鼻を鳴らして腕を組む。
そこまでわかっているのならば、一度くらい挑戦してみればいいのにと思う。
彼女の作ったものならば、少なくとも口にする価値はあるだろうから。
けれど、彼女は挑戦どころか初めから諦めてしまっている。
美食家としてまずいものを美味いというつもりはないが…何だか、癪に障る行動だった。
「ちょっと、やめておきなよ」
ギタラクル、いやイルミは、くん、と裾を引かれる感覚に、意識をそちらに向けた。
自分に気付かせる事なく近付いてきたのはコウだ。
彼女は呆れた顔をして、彼の袖を掴んでいる。
周囲はメンチの様子に戸惑いや怒りの感情を露にしていて、最後列にいる二人の様子には気付かない。
「止めないでよ、コウ」
「こんな所で試験官を殺したからって、どうなるものでもないでしょう?」
「俺、次の仕事でライセンスがいるんだよ。ないと困る」
「そりゃ、わかってるけど。そんな事をしたって、もらえないわよ」
コウ以外は気付かないような殺気を放つイルミを止める。
人殺しがどうだとか、そう言う今更な事を言うつもりはないのだ。
仕事に関しては…まぁ、父や祖父に相談するしかあるまい。
「大体、試験で料理って何?あの程度の男をどうにかできるからって、自慢にならないし」
体格のよい男が、ブハラという試験官に吹っ飛ばされたのを見て、イルミが憎憎しげにそう呟く。
もちろん、表情には出ていない。
確かに、あの程度の男はコウたちにとっては一般人と変わらない。
メンチやブハラもまた、二人にとっては少し強い程度のハンターだ。
必要もない料理で仕事に影響されれば、イルミの反応も無理はないだろう。
「(これ以上は止められそうにないわね。この場をどうにかしてもあの試験官…その内死にそう)」
死因は間違いなく他殺だ。
止まりそうにない片割れに、コウはやれやれと肩を竦めた。
二次試験の追試が終わり、飛行船の中。
自由に歩いてもいいと言う事で、コウはクルーに声をかけて一室を借りた。
シャワーで汗を流し、髪を乾かす。
この先の試験ではこんな風に寛げるとは限らない。
今のうちに堪能しておこうと言うコウの考えだ。
風呂上りの一服をしてから部屋を出たコウは、ドアを開けた姿勢のままでゲ、と表情を歪めた。
恐らく偶然だと思うけれど、部屋の前の廊下に嫌な人物を見たからである。
「やぁ、コウ」
いっそ見なかった事にしたいけれど、そうは問屋が卸さない。
自分の不運を呪いつつ、廊下に出て、閉じたドアに凭れかかる。
明らかに自分に用があるらしい男、ヒソカは、その場から動こうとしなかった。
「私に何の用?」
「さっきと服が違うね」
「…シャワーをしたから。それが何?」
訝しげな視線を向ければ、ヒソカは愉快そうに目を細めて笑う。
その笑いに、嫌な予感を覚えた。
「ハハハ…。うん、やっぱり、“君”だ。くだらないハンター試験を受けに来た甲斐があったよ」
「…ヒソカ…?」
初めから普通だとは思っていなかったけれど…彼は、異常だ。
第六感が関わるなと告げている。
逃げようと、じり、と足を動かしたところで、ヒソカがコウの腕を取った。
「はい、あげるよ」
そう言って渡されたのは、ガラス玉だ。
自分の念能力のそれと似ているけれど、中にこめられたオーラが違う。
コロン、と手の平に転がされたそれとヒソカを交互に見る。
「期間は三日―――楽しんできなよ」
パキン、と音がした。
条件反射的に音源を見れば、手の平のガラス玉の一つに、ひびが入っているのが見えた。
ヒソカに何かを言おうとした彼女は、口を開いたところで、空間の歪みに飲み込まれる。
髪一筋も残さず、忽然と姿を消した彼女。
ヒソカはその場に佇み、クククと喉を鳴らした。
―――その時。
ゾッとするような冷たい殺気が、ヒソカに向けられた。
他の誰にも影響せず、ピンポイントでヒソカに限定して向けられるそれ。
ゆっくりと首を動かせば、こちらに歩いてくるイルミが見えた。
「ヒソカ―――コウに何をしたの?」
表情は変わらないが、その声は低い。
怒り以外に、彼の感情を表現する言葉はない。
殺し屋らしい静か過ぎる怒りによる殺気は、確実にヒソカを貫いている。
「どこにいても、どれだけ離れていても…コウの存在は感じる。俺の片割れだから。それが、消えた。
ヒソカ、正直に話してよ。コウに、何をしたの?」
「流石、双子だね」
「答えて、ヒソカ。殺すよ?」
淡々と話しているイルミだが、その言葉は本当だろう。
これで答えなければ、彼は躊躇いもなくヒソカを殺す。
そう思わせるだけの心地よい殺気。
「コウは会いに行ったんだ。大丈夫、すぐに戻ってくるよ」
「…次の試験会場までは、待つ」
それまでに戻らなければ、やはりイルミはヒソカを殺すのだろう。
とりあえず殺気は消えたけれど、彼はヒソカの所から立ち去ろうとはしなかった。
針で顔を変形させ、ギタラクルへとその容姿を変えて尚、その場に留まっている。
コウが戻るまでヒソカを監視するつもりらしい。
そんな彼に対し、ヒソカは特に気にした様子もなく、自身のポケットを漁った。
取り出した彼の手に握られていた、赤いピアス。
「それ、コウのだよね。盗ったの?」
「―――貰ったんだよ」
それぞれの男の視線の中で、赤いピアスがキラリと光を反射した。
09.11.04