Ice doll --- sc.043
忘れた振りをしていたのかもしれない。
いや…目を瞑っていた、というのだろうか。
「緋の眼」
次々に受験生を追い越していたコピーが聞き取った声が、コウの鼓膜を震わせる。
その言葉と、そしてその声によって、彼女の脳内が動きを止めてしまう。
「うち捨てられた同胞の亡骸からは、1つ残らず目が奪い去られていた。
今でも彼らの暗い瞳が語りかけてくる。“無念だ”と」
本体の感情を読み取ったのだろうか。
もしくは、コピーを動かすだけの念への集中力が足りなかったのかもしれない。
今までは受験生の声に耳を傾けることもなく追い越していたコピーは、そこで足を緩めていた。
より一層、『彼』の声がはっきりと聞き取れるようになる。
「幻影旅団を必ず捕まえてみせる!仲間達の目も全て取り戻す!」
―――何を忘れていたのだろうか。
生き残ってしまった彼が何を考えるのか。
生かされてしまった彼が何に囚われるのか。
そんなこと、考えるまでもなかった。
両親、親戚、友人…。
奪い取った張本人たちである幻影旅団を憎む―――それは、当然の感情だ。
彼よりも、数年とは言え歳を重ねたコウ自身ですら、どれほど彼らを殺したいと思ったことか。
一矢報いることすらできずとも、同胞のためにこの命を賭して…そう考えたのだ。
彼らと過ごすようになって、忘れてしまっていた感情。
漸く澄んだ本来の透明度を取り戻しつつあった水面に、墨が落ちるように。
じわり、と醜い感情が甦って来る。
何を忘れていたのだろうか。
自分は…同胞の仇の下にいるのだ。
ぐるん、と世界が回る。
聞こえていた彼の声が唐突に途絶えた。
足の速度が落ち始め、ついには止まってしまう。
声が聞こえなくなったのは、コピーが消えてしまったから。
コピーを維持するだけの集中力を保つことができなくなったのだ。
―――目が回る。吐き気がする…。
コウは、自分の感情を抑え切れなかった。
コピーが消え、一度は元に戻った彼女の目が、サングラスの奥で緋色を取り戻す。
燃えるような緋い瞳。
息を吸い込もうとすると、ひゅぅ、と喉が鳴る。
助けを求めたい―――でも、誰に?
自分が頼ることのできる人が、本当にこの世界に存在するのだろうか。
唯一、一族の仲間である彼は…きっと、このタトゥーを背負った自分を許さないだろう。
あの声が、姉と慕ってくれた彼の声が、自分を「敵」だと非難する。
まるで、本当にその声が聞こえたように、耳が酷くざわめいた。
その時―――
突然、グイッと強い力で引き寄せられた。
前へと引っ張っていく力に対抗する術を持たず、引かれるがままに縺れそうになる足を動かす。
腕に何かが絡んでいるわけではない。
けれど、見えない何かによって腕を引っ張られている。
10歩ほど進んだところで、コウはこの感覚の正体を思い出した。
半ば反射的に凝を使えば、案の定手首に絡まりついたオーラ。
その元を辿った先に居るのは。
「こんな所で落ちるつもりかい?」
「…ヒソカ…」
「君がいないとますます試験が面白くないからね。走る気になるまで、これは外さないよ」
いつの間にか、彼のすぐ後ろまで引き寄せられていたようだ。
彼はそれだけ言うと、さっさと前を向いて走り出してしまう。
それに引っ張られるようにして、コウも足を進めざるを得なかった。
もちろん、彼女が疲れるほどの速度ではない。
彼女を疲れさせるほどに走ろうと思えば、ほかの受験生の9割以上がこの試験で落ちる。
コウは無理やりに走らされる中で、徐々に頭を整理させていった。
全てを理解した上で、蜘蛛を背負ったはずだった。
しかし、結局のところ、彼女の理解は甘かったということなのだろう。
生きていてほしいと思いながら、仲間が生きていて再会した時の事までは考えなかった。
そこが、彼女の認識の甘さだ。
「………ヒソカ。もう大丈夫だから」
コウの声は小さかったけれど、それでもヒソカの耳には届いたようだ。
少し間をおいて、彼のオーラが剥がれる。
何かが剥がれたような感覚はないけれど、凝を行っている目にはそれがはっきりと見えた。
オーラが絡み付いていた箇所を手で撫で、それからヒソカの方を向く。
他の受験生は前についていく事に必死で、二人の様子に目を向けている余裕すらない。
「ヒソカ…ありがとう」
「どういたしまして。先に走っていくかい?」
ヒソカにそう問われ、コウは少しだけ悩んだ。
しかし、ゆっくりと首を横に振る。
走った先には、彼がいる。
そう思うと、とてもではないが覚悟ができなかった。
せめて今だけは、自分の事情を知る人の傍に―――本能がそう訴えている。
「ルシア」
不意に、その名を呼ばれる。
耳に聞き覚えがある名前ではないけれど、自分にとっては大切なものだった。
「どちらにしようか悩んだのよ」
名前の由来を聞いた時に、母親がそう教えてくれた。
コウの正式な名前は、コウ=ルシア=スフィリア。
ミドルネームとして名づけられた名前が、ルシアなのだ。
しかし、クルタ族の中ではミドルネームは一般的ではなく、コウ=スフィリアが彼女の名前となった。
ずっと忘れることができなかった名前。
何かの時、こうして偽名が必要になると、コウは必ずこの名を使うようにしていた。
偽名というのは、誰かに呼ばれた時に自分のことだと認識できなければ意味がない。
ふと気を抜いているときに呼ばれてそのまま気づかなければ、相手に不信感を抱かせるきっかけになるからだ。
「何、ヒソカ?」
その名で呼ばれたからだろうか。
コウ、と呼ばれるよりも、少しだけ落ち着くことができた。
少し軽くなった足を動かして、彼の隣に並ぶ。
関わりがあると思われるのが嫌で微妙な位置を保っていたのだが、そんなことは些細なことのように思えてきた。
そんな彼女の行動に、ヒソカは軽く目を見開く。
それから、口元を持ち上げてこう続けた。
「君が受け入れようと拒もうと…巣からは逃れられないよ」
そう言った彼に、コウは「そうね」と小さく頷いた。
08.04.21