Ice doll --- sc.042
不意に、目を閉じていたコウが瞼を押し上げる。
眠っていたわけではないのだから、覚醒までの時間は必要なかった。
どこからか向けられている視線は、その数を探るのも億劫になるほどだ。
今時女の受験生も珍しくないだろう―――そう思ったけれど、周囲を見回してみればまだまだ女性は少ない。
パッと見た風景の中に数えられるのは2人。
況してや1人は「女性………うん。女性だろう、多分」そう思い込まなければならないような姿だ。
結構な肉体派だ、と言っておこう。
もう1人は、肩にライフルを担いだ女性だ。
その程度の人数しか参加していないならば、物珍しいと言いたげな視線が向けられるのも不思議ではない。
鬱陶しいとは思うけれど、今すぐに全てを消してしまいたいほどでもなかった。
問題なのは、それらの視線ではないのだ。
コウは顔を動かさないように視線だけを周囲に向ける。
先ほど、嫌な気配を感じた。
「(…気のせいじゃない)」
姿を変えている自分に気付いたのか?いや、まさか―――
そんな考えが、彼女を警戒させる。
そこで、ふとある事に思い当たる。
「…………」
近くはないけれど、遠くもない。
そんな位置に居るヒソカに、小さなオーラを飛ばす。
放出系ではないので、誰かにダメージを与えられるような代物ではない。
恐らく当たったとしても、何か痒かったな?と言う程度を感じるからだ。
ポス、と彼の腕の辺りにそれが当たった。
彼のことだから気のせいだとは思わないだろうと言う彼女の予想通りに、彼はこちらを振り向く。
コウはそんな彼に見えるように、自分の前にオーラで字を書いた。
―――オーラの質って変わるもの?
単純な質問に、ヒソカは軽く首を傾げる。
それから、彼女と同じように空中に文字を浮かび上げた。
―――変わらないよ。現に、君のそれは姿だけの変化だ。
ヒソカからの答えは、コウが必要としていたものだった。
つまり、一度コウのオーラの質を知っている者からすると、姿を変えていることに意味はない。
常に絶で生活する事もできるが、それをすべきだろうか。
「…今更遅いわね」
今から絶で過ごしたとしても、既に気付かれている。
誰に、とははっきりと分からないのだが、誰かがコウを意識している事だけは確かだ。
狙われていると分かったにも拘らず、彼女は冷静だった。
そして、コウはそんな自分に対して小さく笑みを浮かべる。
心身共に強くなった―――そう言う事なのだろう。
怯えるだけの自分ではなくなったのだ。
ジリリリリ、と目覚まし時計のような音がその場に響いた。
300…いや、350以上の人間がその場に居る。
それくらいに広い場所だと言うのに、その音は全員の耳へと確かに届く。
何かしら念の施されたものなのか、はたまた特注品なのか。
よく分からないけれど、そんな地味に凄いベルを持った男が、受験生の輪の中に飛び降りた。
サトツと言う名の、髭の立派な彼は、二次試験会場まで案内すると言った。
二次試験会場まで…つまり、彼についていくことが、即ち一次試験の突破を意味すると言う事。
ただ付いていくだけであると言う事に、いくらかの受験生が安堵の表情を見せている。
しかし、それは束の間の喜びだった。
「(ハンター試験がそんなに甘いわけがないのに…ね)」
徐々に速度が上がってきていると感じる。
この分だと、数分後には全力疾走しなければならない受験生が続出するのだろう。
無限の体力を持つ連中と鬼ごっこや修行をこなしているコウだ。
ただ走るだけの試験では、疲れるどころか面倒で飽きてきてしまう。
既に肩で息をしている受験生を20人ほど追い越してしまった。
目立ちたくない彼女は、先頭でもなく最後尾でもない微妙な位置をキープしている。
しかし、この分だと近い内に先頭集団の中に混ざってしまいそうだ。
「(もう少し速度を落とすか…?)」
でも、そうすると先頭集団に引き離された時が困る。
今までは一本道だが、この先で分かれ道に差し掛かった時、先頭集団を見落としてしまったのでは話にならない。
仕方ない。
そう自分自身を納得させ、少しばかりオーラを押さえた状態で速度を上げる。
ほんの少しだけ速度を上げただけで、見る見るうちに受験生を追い抜いてしまった。
こんな風に牛蒡抜きをしていては、目立つつもりがなくとも目立ってしまうだろう。
やれやれ、と溜め息を吐きつつ、頬に掛かってきた髪を後ろへと払った。
そうして、100人程度を抜いた所で、コウは何かに気付く。
目の前に延々と続く階段。
ここまでもかなりの距離を走っているのに、ここに来て階段が続いているではないか。
「(この分だと…)」
「ここでかなり脱落するね」
コウの考えを読み取ったかのような、絶妙なタイミングで発せられた言葉。
後ろからついてきていた事は知っていたけれど、すぐ隣まで来ているとは思わなかった。
「ヒソカは…逆に体力を持て余しているわね」
「楽しくしてみようか?」
「…私を巻き込まないのなら」
ニィと口角を持ち上げて目を細めたヒソカに、コウは軽く溜め息を吐き出した。
一年前とは考え方が変わっている。
自分が巻き込まれないならば、ヒソカの楽しみの犠牲となる者が出るのも致し方ない。
そんな風に考えるようになっていた。
「それはそうと…。コピーの能力を使えば、前の集団について行く必要はないんじゃないのかい?」
ふと、ヒソカが朝食の献立を話すような軽い口調で告げる。
声を潜めた彼の言葉に、コウはきょとんとした表情を見せ、それからポンと手を叩いた。
「その手があったわね」
そう言うと、懐からサングラスを取り出し、それで目を隠す。
髪は元々ウィッグで覆っているので、変化したとしてもわからないはずだ。
そして、意識を集中させてコピーを生み出す。
オーラを感じる事が出来る者が居れば、一瞬の変化に気付いたかもしれない。
しかし、コウ達の周りに念を覚えている者は居なかった。
もちろん、それを確認した上での行動なのだ。
生み出したコピーは、コウとは似ても似つかない姿の男性だった。
どこにでも居るようなその姿に、ヒソカが軽く驚いた表情を見せる。
「先頭集団の追跡を」
そう指示を出せば、コピーは即座に速度を上げた。
見る見るうちに見えなくなったその背中を見送り、コウは耳に意識を集中する。
一年前には視覚と聴覚しか感じ取る事が出来なかった。
けれど、今では五感の全てを感じる事ができる。
どれほど頑張っても二つの感覚までしか出来ないようだが、五感の中ならば選べるようになったのだ。
そして、今回は聴覚のみ自身の身体に反映させている。
元々コピーの位置を正確に読み取る事ができるので、先頭集団にさえ加わってくれればいいのだ。
聴覚を映したのは、試験官の話が聞ければ、と考えたから。
それが、数分後に思わぬ展開をもたらす事になるなど―――この時のコウには、想像も出来なかった。
08.04.17