Ice doll --- sc.036
「マチ!」
今まさに建物に入ろうかと言う女性を見つけ、コウはそう声を上げた。
その声に気づいたのか、女性―――マチは声のした方を見上げる。
そこで、彼女は自分を見下ろすようにして窓から顔を覗かせているコウを見つけた。
「ちょっと待ってて」声に出さずに唇の動きでそれを伝えると、彼女は建物の中へと消える。
やがて、階段を上ってくる音が近づいてきて、コウの居る部屋のドアが開かれた。
「お待たせ」
そう言って入ってきたマチと顔をあわせるのは久しぶりだ。
数ヶ月ぶりに会った彼女は、何も変わっていない。
何度かメールのやり取りをしたけれど、それも頻繁ではなかった。
「団長に呼ばれたんだけど、どこに居る?」
「ここ」
コウの居る位置は、窓のすぐ脇に置かれたソファーの上だ。
ドアからはその背中が見えるような配置になっている。
コウの答えに疑問符を浮かべ、脇から回るようにしてソファーの正面が見える位置へと移動するマチ。
その途中で、彼女の言葉の意味を理解した。
「本当に寝てるの?」
信じられないんだけど、とでも言いたげな視線がコウへと向けられる。
ソファーに腰掛けた彼女の膝元で、クロロが瞼を伏せているのだ。
横に長いソファーは、一人が座り、もう一人が横たわっていてもまだ余裕がある。
「目を閉じているだけだと思うわ」
「いつからこの状態なの?」
「うーん…たぶん、20分くらい前…かな」
自分のことのはずなのに、何故か不確かな答えを返してくるコウ。
そんな彼女に、マチは首を傾げた。
「わからないの?」
「本に集中していて、気づいたらこうなっていたの」
どれだけ集中していたんだとじっくり問いたいところだ。
そう言えば、彼女の手元には分厚い本がある。
「…何を読んで―――」
読んでるの?と質問しようとしたところで、マチの位置からそのタイトルが見えた。
覚えのあるタイトルに、彼女は一時的とはいえ言葉を失う。
「コウ…あんた、それ…」
「結構面白いわね、これ。団長が見てもいいって言うから、見せてもらってるんだけど…」
念能力って色々だわ。
そう呟く彼女の手元にある本のタイトルはスキルハンター。
クロロの念能力に必要不可欠な本だ。
それ自体も念により具現化されているのだが、彼以外が持っているのを見たのはこれが初めてだ。
「マチ?」
首を傾げ、疑問と共にその名を呼ぶ彼女に、マチはハッと我に返った。
とりあえず「何ともないよ」と答え、目を閉じているクロロを見る。
彼に限ってこの状況で寝ていると言うことはないだろう。
つまり、マチがここに居ることを知っていながら瞼すら動かさないと言うことだ。
どこか白い目で彼を見つめる彼女。
その空気の変化に気づいたのか、ようやくクロロが重い瞼を持ち上げた。
「シャルナークはいつ戻ってくる?」
「え?えっと…もうちょっと」
突然の質問に狼狽しつつも、壁にかかった時計で時刻を確認してそう答えるコウ。
彼女の返事を聞いて、クロロは身体を起こした。
「マチ。奴は下の階に待たせてある」
「団長は来ないの?」
「…男の身体にタトゥーを入れるところを見ていて何が楽しい」
第一、コウの時には鍵までかけただろう。
そう呟いた彼に、マチは「一体どれだけ前の話をするつもりだ」と呆れる。
「団長ほか男共を放り出すのは当然でしょ。狼の前に餌をぶらさげるわけにはいかないんだから」
何を馬鹿なことを、と白けた目を向けてから、下の階へと続く階段へと足を向ける。
まずはコウの元に向かってきた為に、下に待っているなど気がつかなかった。
尤も、誰かが居る事くらいはその気配で感じ取っていたけれど。
「マ、マチ!」
見送ろうとしているクロロに対するように、コウはマチを呼び止めるように声を上げた。
振り向いた彼女は、心配そうなコウの表情をその目に映す事になる。
「…気をつけてね」
その言葉には多くの意味が含まれているような気がした。
少なくとも、命の危険を指しているのではない。
口ほどに物を言うコウの目を見ていれば、それは明らかだ。
「…気をつけるよ」
安心させるようにと言うわけではないけれど、マチはそう答えてから階段へと消えた。
彼女の後姿を追うように、コウはそちらを見つめ続ける。
「何かあったのか?あんな風に声を掛けるなんて」
首を傾げてそう問いかけるクロロ。
コウは少しだけ躊躇ってから、その視線に負けるようにして口を開く事になった。
「何か…好きそうだから」
「何が?」
「…女の…人?」
聞かれても困る。
そう思ったクロロだが、コウの言葉に軽く眉を寄せる。
マチが危険だとか、そんな事を思ったわけではない。
コウにそう思わせる何かがあったと言う事実が、彼の眉間に皺を刻ませた。
「何でそう思うんだ?」
その理由を問われるのは当然の事だ。
クロロにそう問われ、コウは暫し動きを止める。
そして、次の瞬間には頬を耳まで赤くした。
ヒソカに拘束され、背中の蜘蛛を弄り回された事を思い出してしまう。
思わず言葉を失ってクロロから視線を逸らすコウ。
彼女の反応はその場の空気を冷たくさせるには十分すぎる。
ビシッと音を立てて空気が凍結したかのような錯覚を起こさせるほどに、クロロのオーラが乱れた。
「…あの、だから…」
「いや、いい。言うな」
彼女の口から聞いて堪るか、とばかりに彼女の言葉を遮る。
話さずにすんだ事に対し安堵するも、クロロの機嫌が急降下している事に口元を引きつらせる。
自分がその対象ではないはずだが…隣でこうも冷たい空気を発せられると、正直かなり怖い。
強くなったと言っても、クロロが本気になればコウなどものの数秒で地面に伏す結果となる。
その実力差が分かっているからこそ、怒っている彼に対しては軽く恐怖すら覚えるのだ。
コウが言葉を失っている事に気付いたのか、彼は漸くそのオーラを押さえ込む。
数分振りにまともに呼吸することが出来た彼女は、そのままソファーの背凭れに深く沈んだ。
「コウ」
「…何?」
「ヒソカに近づくなよ」
「うん。それは大丈夫。こっちから望んで近づく事はないわ」
どうにも彼は苦手な部類に入る。
なんと言うか、こう…手の上でコロコロと転がされているような気がしてならないのだ。
クロロの、命令とも取れる言葉にしっかりと頷くと、コウは持ったままだったスキルハンターを彼に返した。
いや、返そうとしたのだが、彼は一瞥をくれただけ。
「もういいのか?」
「え?あー…まだ途中だけど…」
「じゃあ、もう少し読んでいて構わない」
他の奴の念能力は、自分のそれを磨き上げるのに参考になるものだ。
それを理解しているからこそ、クロロは彼女に自分の念能力を提供している。
彼女もまた、彼の想いを理解し、本を差し出すのをやめて自分の手元へと戻した。
そして、膝の上にそれを置くと、先ほどの続きとなるページへと指を滑らせる。
下の階ではヒソカとマチが無言の対峙をしているのだが、コウの知るところではなかった。
08.02.25