Ice doll --- sc.021
瞼を伏せ、意識を集中させる。
視覚的情報を断つ事により、感覚的な部分で周囲を探る。
小鳥の囀りさえ聞こえない。
コウの纏う空気の鋭さから、野生の動物が逃げ出しているのだ。
尤も、その刺す様な空気を纏っているのは、彼女だけではないけれど。
ピン、と。
彼女の警戒網に一人が入り込む。
絶を行なっているようだが、集中している彼女のそれを逃れる事は出来ない。
コウはトンと後方へと飛び、前からの飛び道具を避けた。
今まで彼女が足を下ろしていた位置に複数のナイフが突き刺さる。
その刺さり具合から見て、一本でも刺されば致命傷を負う事は確実だ。
「(ナイフは囮。本体は…)」
すでにナイフが飛んできた方向にその気配はない。
目を開き、視覚を始めとする感覚器官を総動員させる。
そして、掴んだ気配を追って地面を蹴り、その姿を視界に捉えた。
彼女は手を突き出すのと同時に、緋の眼を発現させる。
ザワリと身体に変化が起こり、増えたオーラの一部を手に集中させる。
腕に白い霞を纏ってクロロへと攻撃を仕掛けるが、もう少しのところでそれを避けられてしまった。
しかし、その行動すらもコウの予想の範囲内だったのだろう。
追撃の手を休める事無く、彼女はクロロとの距離を詰める。
絶妙なバランス感覚で繰り出される攻撃は多方向に及んでおり、彼の方も手を抜いていられる状態ではない。
気を抜けば、即座に彼女の攻撃を食らうことになるだろう。
「(…流石に、速いな)」
速さで言えば、自分よりも上だ。
クロロは、はっきりとそう自覚した。
繰り出される攻撃の重みは、女性故の差が生じている。
しかし彼女はその課題を、攻撃回数を増やし、かつ精密にする事により、クリアした。
全ての攻撃は人体の急所を掠めている。
彼女の脳内には、全ての急所が完全に覚えられているのだろう。
個人差はあるけれど、急所の場所が大きく変わると言う事はまずありえない。
それを知っているだけでも、戦況は随分と違ってくるものだ。
コウの攻撃を避けながらそんな事を考えているだけでも、ある程度は余裕なのだと言う事は分かる。
しかし、実際は胸を張れるほどの余裕はない。
事実として、防戦一方のクロロの着衣が所々破れ始めている。
そこから覗く肌も、決して無傷と言うわけではなかった。
右側面から繰り出されたナイフの軌道から逃げた所で、クロロは初めてコウの姿を見失う。
「―――…取った!」
探すよりも早く、背後から声が聞こえた。
それと同時に背中から胸に向けて、覚えのある冷気が通り抜ける。
前の時のようにゆっくりではなく、突き抜けたと言っても差し障りない速度で。
「………一週間、か」
悪くはないな、と呟く。
すでにコウの攻撃の手は止まっている。
肩で息をしている彼女の傍らに、自分と全く同じ姿を持つそれを見止め、クロロは頷いた。
「よし。クリアだ」
「…つ、かれた…」
カクン、と膝の力が抜ける。
地面に倒れこみそうになった所で、コウは傍らに居たクロロ・コピーに支えられた。
自分ではない自分に支えられる彼女。
何と言うか、感想を述べるのが難しい光景だ。
「霞を出せば自然と警戒する。途中でそれを消せるようになっていたな」
「ええ。何だか、身体の中に留めておけるようになったみたい」
裏を返せば、目に見えていないので警戒し難くなったと言う事だ。
それを身体に潜らせるタイミングが自由になった。
飛躍的な進歩だと言えるだろう。
「ジーラス、解除」
コウの呟きに合わせてクロロ・コピーが消える。
彼女はそれを見届けてその場に座り込んだ。
休みなく攻撃を仕掛けていた反動が、今になって彼女の身体に押し寄せている。
「…一応クリアした事に代わりは無いが…そこまで疲労していたら、意味が無いな。
コピーした後、自分の身体が動かないのでは逆に危険だ」
「…うん」
「当面は念能力よりも体力面を強化すべきか…ウボォーを呼んでおく」
それは嫌だなぁ―――そう思ったけれど、呼んでおくか?と聞かれなかった時点でそれは決定事項。
悪あがきをしたとしても未来は変わらない事を、コウはちゃんと理解していた。
「『Ice doll』の方は問題ない。あるとすれば…あっちか…」
「…その話なんだけど…そっちは、自分で鍛えてみる」
もしくは、シャルに頼む事にするわ。
そう言ったコウに、クロロが軽く目を見開く。
何故、と問われる前に彼女は続けた。
「『Ice doll』の方は特質だから団長の意見が欲しかったけれど…あれは私本来の操作系。
特質系の団長に頼むよりも、同じ操作系のシャルに頼んだ方がいいでしょう?」
彼女の言葉に、確かに、と納得する。
同じ系統のオーラの持ち主の方が、的確な話が出来る事は確かだ。
しかし…何と言うか、少し…ほんの少し、複雑な気分だ。
「…操作系のオーラも出来ない事はない」
「………何でそんなに複雑な表情をしているのか分からないけれど。とにかく、こっちは自力で完成させる」
これだけは譲らない。
そう頑なに告げる彼女と見詰め合う…もとい、睨み合う事数秒。
折れたのは、クロロだった。
「理由を聞こう」
「…団長が操られた時の、限りなくゼロに近い状況の可能性を考慮して」
言われてすぐにその内容を把握するには、少し情報が足りなかった。
素晴らしい回転を誇るクロロの頭をもってしても、納得できる答えに到達するまでに10秒も掛かったほどだ。
「…ありえない可能性だな」
「まぁ、私もそう思う。けれど…ゼロじゃない以上は、クロロに手の内全てを見せるわけには行かない」
それが、即ち死に繋がる事を教えてくれたのは、他でもない彼自身だ。
例えばクロロが誰かに記憶を見られたとする。
そうなれば、念能力を全て知られているコウもまた、その危険に晒される事になるのだ。
『知る』という事は、それへの対処法を考えられる、と言うことだ。
「…わかった。シャルナークの力が必要なら、早めに声を掛けておけ」
「シャル、何か用事?」
「ハンター試験を受けに行くらしい」
前に話していた、とクロロが語る。
コウはそれを聞いて二・三度瞬きした。
「ハンター試験…」
「知らないのか?」
「ハンターは知ってる。それの試験があることも知ってるけど…誰でも受けられるものなの?」
「あぁ。一般人でも問題はない」
クロロはそう答えてから、ただし、と付け足した。
その真剣な眼に、彼女は口を噤む。
「生き残れる保障はない。ハンターは、それ相応の実力をつけた者だけが得られる称号だ」
「…クロロは?」
「試験に合格する自信はある。だが受けるつもりはない」
「そっか。じゃあ…試験って難しいのね」
簡単だったなら受けるつもりだったのだろうか。
彼女はどこか肩を落とした様子を見せる。
「…言っておくが今の話は、一般人のレベルならば、だぞ」
「え?」
「お前が死ぬわけがない。そんな試験なら、毎年合格者はゼロだ」
当然だろう。
クロロが本気ではないとは言え、彼との勝負の勝率が4割を超えようかと言う彼女が死ぬような試験。
彼並みの実力者しか通れないような試験ならば、毎年合格者はゼロばかりが並ぶ事になる。
それでは試験の意味がない。
「興味があるなら詳しい話はシャルナークに聞けばいい」
「そうするわ。…受けてもいい?」
「好きにしろ。ただし…アイス・ドールだとばれるな。それと…危険だと判断したら、迷わず試験を放り出せ。
ごく稀に、俺と同等の実力者が参加していることもある」
気を抜くな。
そう言ったクロロの目は、本日一番の鋭さを見せた。
彼の脳裏を過ぎったのはもう数ヶ月も前の、コウが誘拐された一件だろう。
あの時の無力な自分を思い出した彼女は、クロロの目を真正面から見つめ返してからコクリと頷いた。
07.11.27