Ice doll --- sc.016
「アイス・ドールは兄貴よりもお袋の方が欲しがってたんだ」
ガサガサと森の中を移動しながら、キルアはコウに向かってそう言う。
彼はコウにアイス・ドールとしての姿を見せて欲しいとせがんだりはしなかった。
しかし、彼女がそれであることを疑っては居ないようだ。
コウもまた、彼の考えを否定も肯定もしてはいない。
「多分、兄貴はその為にコウを連れて来たんだと思う」
人間を何だと思っているんだろう。
そう思ったけれど、その考えは即座に捨て去った。
一族の目は、美しいからと言う理由で全て奪われた。
今更、そんなことを考えるのは実に馬鹿らしいことだと思いなおしたのだ。
「それにしても…コウって、力がない以外はそれなりに出来るんだな」
不意に、キルアがそう言った。
彼自身は、特にコウに合わせて走っているわけではない。
つまり、コウが彼の速度に遅れを取っていない、と言うことだ。
これを常人とは言い難い。
「…少し、ね」
あの幻影旅団のメンバーと鬼ごっこをしていたのだ。
足が速くなるのも、体力がつくのも当然の事。
しかし、そうは答えられず、コウは曖昧に言葉を濁した。
「コウの背中のタトゥーって、何か意味でもあんの?」
「――――…いずれ、知る事になると思うわ」
そう言ってコウはそれ以上答えようとはしなかった。
いずれ、耳にすることになるはずだ。
今はそれほどに有名ではなくとも、旅団の名は確実に世界に知れ渡ってきている。
キルアが少年ではなくなる頃には、もっと有名になっているだろう。
その名に怯える者が現れるほどに。
「コウって謎ばっかりだな」
キルアは不貞腐れた様子も無く、そう言った。
彼にとって、彼女が答えないであろう事は予測の範囲だったのだろう。
「もうすぐ門に着く。今のところ兄貴は追ってきてないけど…出たら、どうすんの?」
「…とりあえず、仲間に合流する事だけを考えるわ」
クロロの知恵を借りれば、イルミから逃れる事もできるだろう。
場合によっては、彼が何とかしてくれる。
誰かに頼るのは嫌だけれど、そうしなければ完全に逃げる事は出来ないだろう。
自分は―――まだ弱い。
コウが傷つく事を極端に嫌うクロロのことだ。
何も対処せずに彼女を放置する事はまず考えられない。
恐らくは、頼まずとも彼女を守るだろう。
「俺、門の所までしか連れてってやれないんだ。ごめんな」
「構わない…寧ろ、十分よ。私一人では、この森を抜けられなかっただろから。でも…大丈夫なの?」
コウの問いかけに、キルアはニッと笑った。
彼女が彼を案じるのは、自分を逃がして兄から咎めを受けないのか、と言うこと。
もちろん、無傷ではすまないだろう。
けれど―――
「大丈夫だって!慣れてるし。それに俺、親に期待されてんだ。だから…殺される事はない」
多分だけど、と付け足すのは心の中だけだ。
尤も、かなり高い確率で拷問だけで済むだろう。
今まで手塩に掛けて暗殺者に育ててきたキルアを、みすみす殺すとは到底思えない。
母親がキルア以上にアイス・ドールを欲しがっていなければ、だけれど。
ふと、コウは前方―――木々の向こうに、壁を見た。
あれがキルアの言っていた門なのだろう。
「キルア、あれ?」
「そう。試しの門」
どう言った経緯でその名がついたのかを聞きたい所だが、今はそんな余裕はない。
試しの門、口には出さずに頭の中で反芻した所で、視界にキラリと何かが光った。
それを確認するのと同時に、キルアとコウは左右へと別れる。
彼らが地面を蹴った場所に、数十本の針が刺さった。
「まさかキルアが懐くとは思わなかった。迂闊だったよ」
お蔭で面倒な手間が増えた。
感情の見えない単調な声が耳に届く。
ビクリと肩を揺らしたのは、コウではなかった。
キルアの反応に気付いた彼女は、意識の殆どをイルミに向けつつ、残りでキルアの様子を窺う。
自分がイルミに感じる恐怖よりも遥かに酷い何かを感じているようだ。
指先一つも動かせなくなっているらしい彼を見て、ここまでだなと悟る。
「キルア」
「っ!!」
「行って」
「…で、も…っ」
「いいから。行きなさい」
あえて命令口調にしたのは、そうしなければ彼が踏み切れそうにないと判断したから。
自分よりも10ほども幼い子供に命令するほどに落ちぶれてはいないけれど、今は緊急事態だ。
このまま彼をこの場所に置いておけば、倒れてしまいかねない。
「キルア=ゾルディック!」
強くそう言えば、彼は弾かれたように走り出した。
瞬く間にその姿が消え、気配も感じ取れなくなる。
同じ家に住んでいる兄弟だ。
今を凌いだとしても、それは後に回されただけのこと。
分かっているけれど…この場で、彼がその小さな身体を震えさせるのを、見たくは無かった。
ただの自己満足だとは分かっているけれど。
「…まぁ、キルへのお仕置きは後でいいし。とりあえず、君を連れて帰らないとね」
母さんが待ってるし、そう言ってイルミが一歩近づいてくる。
かと思えば、彼の姿が消える。
しかし、コウは慌てるわけでもなく、ごく自然に地面を蹴った。
即座に振り向いた彼女の視界には、今しがた立っていた場所に移動したイルミの姿がある。
「……へぇ。その辺の奴らとは違うね。流石は幻影旅団、って所かな」
このタイミングでその言葉が飛び出すとは思わなかった。
一瞬目を見開くコウだが、あぁ、と納得する。
そう言えば、彼は自分の背中を注視していた。
あれは、背中に刻まれた蜘蛛を見つめていたのだろう。
ゾルディックほどに有名ではないけれど、裏世界を生きる者としては危険の部類に入る。
彼がその存在を知っていても、何ら不思議ではなかった。
「別に幻影旅団であろうとなかろうと、大した変わりはないけどね」
自分よりも上か下か。
彼にとって重要なのは、その程度だ。
捕まえてしまえば逃げられないのならば、いくら足が速かろうが格闘センスがよかろうが、自分よりは下だ。
そろそろ本気で捕まえにかかってくる。
コウは彼の様子からそれを悟る。
分厚い門の向こうに慣れたオーラを感じたのは、それとほぼ同時の事だった。
07.11.02