Ice doll --- sc.015
ガチャリ。
前触れもなく唐突に開くドア。
ここの住人にはノックと言う習慣が無いのだろうか。
まだ二度目、されど二度目―――コウにそう思わせるには十分だった。
「兄貴。親父が呼んでる」
この状況に眉一つ動かさず、ドアの所から顔を覗かせた少年がそう言った。
彼くらいの年齢ならば、まだまだ声に表情が現れていてもおかしくはないはず。
けれど、その単調な声はどこか世界を諦めているようにも聞こえた。
コウを押さえつけていた、兄貴、と呼ばれた彼は、少年の言葉に溜め息を一つ。
それからすぐに彼女の腕を放し、ソファーから立ち上がった。
コウを一瞥する事すらなく少年が居るドアの方へと歩いていく。
少年がその身をずらしてドアを譲るのを横目に、彼はそこを潜り抜けた。
「殺しちゃ駄目だよ」
少年に向けて、そう言葉を残して彼は去っていく。
彼が居なくなった事で漸く片足以外不自由なく身体を動かせるようになったコウは、乱れた着衣を正す。
破れた箇所はどうしようもなく、彼女の白い肌を見せていたが、とりあえず先程よりはマシだ。
そうしていると、パタン、とドアを閉じる音がした。
先程の少年が去ったのだろうと思ってそちらを向いた彼女は、予想に反して部屋の中に残っている少年に驚く。
彼は部屋の中をズンズンと進み、コウのところまできた。
コウがビクリ、と肩を揺らすも、そのまま彼女を通り越していく。
「?」
何事も無かった事に対して疑問符を浮かべ、ならば彼はどこへ、とその背中を目で追う。
いや、追おうとした。
その瞬間、コウの視界は真っ白に染まり、顔には何かがかぶさってくる感触が。
半ば反射的に手を伸ばして視界の回復を図るも、中々上手くいかない。
「ぷは」
漸く顔を出し、まるで水から出た時のような声を漏らしてしまう。
そうして、コウは自身の手の中を見下ろした。
そこにあったのは、ベッドの上にあったであろう真っ白なシーツ。
恐らくそれが使われていた…基、置かれていたベッドの方を見れば、少年がそこに腰掛けてこちらを見ている。
「あの…ありがとう」
自分の格好を気遣ってくれたのだという事は、すぐにわかった。
戸惑いつつもそう礼を述べる彼女に、少年はふいっと視線を逸らす。
「別に。俺が見たくなかっただけ」
素っ気無い物言いであるが、その頬は少し血色が良くなっている。
照れ…なのだろう。
投げて寄越してくれたシーツをありがたく羽織り、コウは彼を見た。
男を兄、と呼んだからには、この少年は弟なのだろう。
しかし…似ていない。
彼が闇を閉じ込めたような黒髪を持っていたのに対し、少年は輝くような銀色の髪だ。
髪質だってストレートではなく、自由奔放に跳ねている。
窓際に置かれたベッドに腰掛ける少年の髪は日の光に透けていて、とても綺麗だった。
「…綺麗な髪ね」
素直に零れ落ちた言葉に、少年が目を見開く。
驚いたように彼女を見つめてから、先程と同じように顔を逸らしてしまった。
「アンタの方が綺麗だろっ」
やや乱暴にそう言った彼の頬には明らかに朱が走っており、それは先程よりも濃いようだ。
男が居た時の緊張感が完全に抜け落ちていくのを感じる。
クスクスと笑い声が零れ、室内の空気が和らぐ。
それを聞いた少年が口を尖らせる姿は、歳相応の反応だと思った。
どこか背伸びをしてしまっているように見えるのは、家庭環境が関係しているのだろう。
「なぁ、アンタ…兄貴の、何?」
「さぁ…何と答えればいいのかしら」
誘拐されました、と答えるわけにもいくまい。
少年はある程度状況を把握していて、あえて尋ねてきているのだ。
「出来るだけ早く出て行った方がいい」
「それが出来るなら、やってるわ」
首を振りながらそう答えると、コウはチラリと足枷を一瞥する。
睨みつけた所で、それが外れるわけでも軽くなるわけでもない。
コウの向かいに移動してきた少年は、彼女の視線の先を追って首を傾げた。
「逃げられないのか?」
「…重いのよ」
「…ふぅん…。アイス・ドールって普通の人間なんだな」
ピクリとコウが反応した事に、彼は気付いただろうか。
恐らく、この少年もその気になれば人を殺す事ができる。
彼が全く警戒していないのは、それに関して自信があるからだろう。
いつでもコウを殺す事ができる―――その自信が、彼に警戒を忘れさせている。
けれど、彼女自身も彼に対して先程の男ほどに警戒しては居なかった。
彼女はそれを、少年が念を覚えていないからだと憶測する。
その状況判断は間違いではなく、寧ろ正しすぎるものであった。
「な、アンタ名前は?」
「…人に名前を尋ねる時は、まず自分が名乗るべきじゃない?」
「そう言うもん?ま、いいや。俺はキルア。ついでに言うと、兄貴はイルミ。アンタは?」
「………コウよ」
念能力者が相手ならば、不用意に名前を名乗る事はあまり褒められた事ではない。
しかし、少年はそれを覚えておらず、その事実がコウを甘くした。
名前を告げてしまってから己の失態に気付き、心中で舌を打つコウ。
そんな彼女に対し、少年…キルアは、コウか、とどこか嬉しそうに彼女の名を繰り返す。
「なぁ、コウ。逃がしてやろうか?」
「え?」
「だから。俺がここから逃がしてやるって言ってんの」
どう?と首を傾げる彼が何を言っているのか、理解できなかった。
逃がす―――そう聞こえたのは、空耳だろうか。
「…何が、目的?」
「俺と友達になってよ。ホントは同じくらいの奴がいいんだけどさ。うち、いないんだ」
屈託無く笑う彼に、コウは口を噤む。
何となく、彼のファミリーネームが分かってしまった。
『この殺し屋は気をつけなよ。コウじゃ、まだ敵わないから。出会ったら逃げる事だけを考えた方がいい。
捕まらない限りは、コウの能力なら逃げるくらいは出来ると思うよ』
それを教えてくれたのは、シャルナークだった。
態々教えてもらっていたのに、捕まってしまった自分が情けない。
「キルアは…ゾルディック?」
「うん。そうだよ」
それがどうかした?と首を傾げる彼は、まだ子供だった。
クラピカよりも更に小さい、こんな子供まで人を殺す術を覚えているのか。
外の世界は、コウの予想よりも遥かに恐ろしい所だった。
「嬉しい申し出だけれど…ごめんね」
「…何で?」
「きっと、あなたが望んでいるような事はしてあげられない。私…帰らなくちゃ」
共に笑いあって、趣味などを分かち合う。
時には自身のスキルを高めあうのもいいだろう。
彼が想像している友達と言うのは、きっとそう言った…当たり前の関係だ。
すでに蜘蛛に囚われている自分に、それを叶える事が出来るとは思えない。
それを思うと、下手に希望を抱かせるような事は言えなかった。
「それにね、キルア」
「……………」
「友達と言うのは、頼んでなるものではないのよ。
名前を知って、そこからお互いに一歩でも歩み寄ったなら、その関係は友達になる」
そう言うものだよ。
哀しげに、そしてどこか拗ねたように視線を逸らしていたキルアは、コウの言葉に目を見開く。
逃がしていた視線を彼女へと戻せば、そこにあるのは家族の誰一人として見せないような、優しい微笑み。
本来ならば母親に与えられるべきあたたかい優しさを、コウの中に見出してしまった瞬間だった。
「じゃあ、コウは俺の友達?」
「少なくとも、こうして会話をして…お互いに歩み寄れていると思うわ」
にこりと微笑んだ彼女に、キルアも僅かに表情を和らげた。
どこか世界を諦めたような、そんな笑いではなく、自然で少年らしい笑顔が垣間見える。
ガシャン、とコウを拘束していた金属が、真っ二つに割れた。
07.10.30