Free  act.57

「珍しい…」

解放された唇が真っ先に零れ落としたのは、そんな間の抜けた感想だった。
コウの言葉に思わず苦笑を浮かべるイルミ。
しかし、本題を忘れていない彼はその口を開く。

「ごめん。それと、ありがとう」

イルミはいつもよりも熱い彼女の頬を手で挟みこみ、静かにそう告げた。
昨日だけでも、彼女は三種類の毒を身体に受けている。
どれも全て、自分が受けるはずだったものだ。
いくら毒が効かないと言っても限度があり、現に彼女は体調を崩している。
あのターゲットから聞き出した情報によると、あの依頼自体が仕組まれたものだったらしい。
依頼主とターゲットは元から仲間で、いつか自分達に向けられる可能性のある殺し屋ゾルディック家を恐れた。
殺される前に殺せ。
利害の一致した彼らは、片方が依頼主、もう片方がターゲットを演じたと言うわけだ。
その事実を語ると、コウは眉間に深く皺を刻み込んだ。

「…それ、本当?」
「疑うの?」
「いや、信じるけど………信じられない」
「矛盾してるよ、その言葉」

前髪に指を差し込み、苛立ちを誤魔化すように掻き揚げた彼女の言葉にイルミはそう答える。
コウはきょとんと目を向けるが、やがて納得したように首を振った。

「イルミの言葉は何より信じてる。ただ、その事実に気付かなかった自分が信じられないのよ」

こんな茶番に気付かないなんて…とコウはぎゅっと眉を寄せる。
どうやら、情報屋としてのプライドが傷ついたらしい。

「私こそ、ごめん。情報屋失格ね…イルミを危ない目にあわせるところだった」
「そんなの慣れてるよ」
「慣れる慣れないの問題じゃない。依頼人は?」
「親父に話したら一時間後には片付いてたよ。相変わらず大事にされてるね」

自分の手で片付けたいのは山々ながらも、コウの容態が気になっていた彼は父親に報告ついでにその事を話した。
シルバとて中々忙しい身だ。
すぐには無理だろうと思っていたのだが…
こちらに戻る準備を終わらせた頃には片付けておいたとの連絡が入った。
いつもでは有り得ないほどの速度に思わず目を見開いてしまったのを覚えている。
小さい頃から実の娘のように可愛がっているコウの影響は大きいのだと、改めて痛感した。

「そっか…お礼、言っておかないとね」
「いや、寧ろ謝ってた。今回の仕事は父さんから回ってきたものだったし」

彼に限って罪悪感などは無いだろうが、自身を案じてくれていることは確かだ。
殺し屋一家と言われようが、自分にとっては大切だと、コウは素直にそう思える。














「依頼は完了したとは言え…釈然としないわね」
「まぁ、倒れて熱出して…貴重な経験だとは思うよ」

確かに、とコウは思う。
風邪などここ十数年はかかっていないし、他の病気も然り。
まだ敵の居る部屋で意識を飛ばし、尚且つ高熱で寝込むなど…貴重な体験、以外に言いようはない。
こうして即座に脳を回転させられるようになった事から、体調は回復傾向にあるのだとわかる。
すでにベッドに貼り付けられているのも嬉しく思えないほどだった。

「ねぇ」
「却下」
「………まだ何も言ってないわ」
「新しい仕事の調整をしたいからパソコンを寄越せ、でしょ」

問いかけですらない言葉にコウは自身のそれを詰まらせる。
流石に寄越せ、と命令などするはずはないが、内容は彼女が考えていた事と全く同じだ。
ルシアとスノウの姿が見えないのも、恐らくイルミが外に出しているのだろう。
彼らは何だかんだ言ってもコウの命令には忠実だ。
彼女が持って来いと言えば、その持ち前の頭脳で躊躇いはするもののやはりその願いを聞き遂げる。
自分の考えを良くわかっている、と思わずにはいられなかった。

「この先一週間の仕事は全部キャンセルしてあるよ」
「手回しのいい事で」

金が入らないじゃない、と文句を言ってみれば「必要ないでしょ」と返される。
その間一秒とおかずに。
確かに金なら浴びるほどあるし、実際に秒刻みで増えていると言っても過言ではない。
いつでも欲しい時に情報を流す代わりに、毎月一定の額を支払う。
そんな契約的な仕事もある事にはあるのだ。
生憎、一週間働かなかったからと言って底を尽けるような額の貯金ではない。

「…イルミ、仕事は?」
「俺も有り余ってるから」

要するに、彼自身も全てキャンセルしてあるらしい。
それに関してはシルバ辺りが上手く調整しているのだろうな、とコウは考えた。
そして、大人しく横になったままイルミを見上げる。

「…罪悪感ならごめんよ」
「あえて言うなら心配」
「………イルミが心配って……恐ろしく似合わないわね」

想像して思わず唇を引きつらせる。
普段の彼の様子からすれば、有り得ないと言っても過言ではないだろう。
だが、こうしてベッドの脇に椅子を置き、この場を離れようとしない彼を見ていれば…。

「本当、貴重な体験だわ」

そう思わずには居られない。
心配、も彼には似合わないが、看病と言うのもこれが中々不自然だ。
堪えようとしていた笑いがこみ上げてきて、唇からそれの断片が漏れ出す。
それに気付いたのか、イルミは僅かに眉を寄せたが脇に置いていた本へと手を伸ばす以外に何も言わない。
本の世界に戻れる彼はいいとして、困ったのはコウだ。
誰に聞いても寝すぎていると言うお言葉に肯定の返事を頂けるだけの時間をベッドの上で過ごしている。
すでに、眠気などどこかへ消え失せてしまっていた。
かと言って、仕事をするにも彼によってパソコンとは引き離されている。
どうしたものか…とコウは窓の外を見つめた。
赤みを帯びた日が差し込んでいるのは、時間的にすでに夕暮れを迎えようとしているからだろう。
これから世間は就寝時間への道を進んでいくと言うのに、自分には無縁のものに思える。

「何考えてるの?」

その声にハッとして視線を向けるが、彼の眼は活字を追っているだけで自分の方は向いていない。
どうやってこちらの表情を読み取ったんだと問い詰めたくなるが、それは無意味な質問だろうと思い直す。
コウはただ首を横に振った。

「別に。ただ、暇だなって」

忙しい方が性に合っていると思う。
せめて読書でも出来ればいいのだろうが、今現在手の届く範囲にあるのは一冊のみ。
それはイルミの手の中にあるのだから、一番初めに除外すべきものだ。

「寝れば?」
「流石に十何時間も寝ればそれも無理」

即座にそう答えれば、溜め息と共にイルミが席を立つ。
何をしてくれるんだ?と期待の眼差しが彼を追いかけるのだが、彼はコウに何をするでもなく部屋を横断していく。
そして、大きいクローゼットを開いて中を物色していた。
数秒でそれを終えると、彼は今の時期にぴったりな上着を片手に戻ってくる。
それを差し出されること数秒。

「要らないの?」
「要る。………けど…何で?」

とりあえず要らないのかと問われれば要ると答えてしまう。
しかし、その後で彼の行動に関して首を傾げた。
上着を掴んだまま動こうとしない彼女に代わり、イルミはそれを奪い取ってその細い肩を覆う。

「散歩程度なら付き合うよ」

そう言って差し出された手を見つめ、コウはふと笑みを零す。
どうやら、一人で読書に勤しむのではなく時間つぶしに付き合ってくれるようだ。
その手に自身のそれを重ね、十数時間ぶりに彼女は自分の足で立った。
そして、二人は夕暮れ時の中庭に向かって歩いていく。

06.05.16