Free act.56
身体が重い。
浮かび上がった思考でまず考えたのはそんな事だった。
閉じた瞼の向こうに明るさを感じつつも、思い通りにならない身体に苛立ちが募る。
ゆっくりと視界を開いていけば、見慣れた天井が飛び込んできた。
「………っはぁ…」
吐き出した息は思いの他熱く、慣れない経験に首を傾げたくなった。
あぁ、熱があるのか。
と言う結論に達したのは、身体が必要以上に熱い事と、額に乗せられた濡れタオルのおかげだ。
そこまで考えが到達した時、不意に部屋のドアが静かに開かれる音を聞く。
目線だけを動かして寝室への入り口に視線を向けていると、そこから覚えのある人物が顔を見せた。
「お目覚めですか、コウ様」
ほっとしたように口元を緩めたのは、幼い頃からコウの専属としてメイドを勤めてくれているシュレイヤだ。
見慣れた、と思っていた天井は、どうやらスフィリア家のものだったらしい。
「あ、動こうとしないでくださいね。まだ熱があるんですから」
身体を起こそうと僅かに動いた事に気付いた彼女は手をあげてそれを制す。
ベッドの傍らまで歩み寄った彼女は、コウの額の上に乗っていたタオルを取り、新たに冷やしてきたそれを手に取る。
「失礼します」
そう言って彼女の額に手を添えると、僅かに眉を寄せた。
そして手に持ったままだった新たなタオルを彼女の額に乗せる。
「血清は打ちましたけれど、少し遅かったようですね。効果があまりよくありません」
「…何度?」
「先程は38度5分でした。今は…少しは下がったようですね」
「………高熱ね」
風邪も引かない彼女からすれば高すぎるくらいの熱だ。
特殊な毒を持つ蛇だっただけに、今まで毒を慣らしていた筈の身体も僅かに音を上げたらしい。
自分のようなあちらの仕事を持つ者でなければ、あの屋敷内でお陀仏なのだから、よしとすべきところではある。
コウはそう考えると目線だけを動かして部屋の中を彷徨わせる。
「…シュレイヤ…」
「はい、何でしょう」
「イルミは?」
屋敷の中で意識を失って、次に目覚めた時はすでにここに居たのだ。
コウが彼を気にするもの道理と言うものだ。
シュレイヤはにこりと微笑んで、作業の手を止めコウに向き直る。
「イルミ様は怪我も無くご無事です。つい先程までこちらにいらっしゃいましたよ」
「そう」
「今は執事に急かされて一旦報告の為に屋敷に戻っておられます」
その時の様子を思い出したシュレイヤはクスクスと笑みを零す。
もちろん、その状況を知らないコウは彼女の様子に首を傾げるだけであったが。
「ゾルディック家では血清が手に入らないからと、飛行船で屋敷にお越しになった時は驚きました」
コウが意識を失ってからと言うもの、イルミは例のターゲットとの遣り取りを宣言通り3分以内に終わらせた。
そして、依頼完了の証拠となる書類を持ち出し、早々に彼女を連れて飛行船に戻る。
男の情報により自身の家では扱っていない毒だと言う事はわかっていた。
知識として持っていた彼女ならばその血清も持っているだろうと、彼はスフィリア家を目指す事を決める。
しかし、前もって彼女から聞いていたコードは自動操縦の設定と解除、そして帰省モードの設定のみ。
遠回りとは理解しつつも、操作を間違えて爆発するよりはと、彼は一旦ゾルディック家へと帰る。
そしてその足で自分の飛行船へと乗り換え、この屋敷に辿り着いたと言うわけだ。
「コウ様が趣味と称して世界の色々なものを集めておられた事が大いに役立ちました」
「部屋のパスワードわかったの?」
「スノウが解除してくれました。イルミ様がスノウをルシアと共に連れてくださいましたから」
彼女の言葉に、そう言えばスノウにパスワードを覚えさせたな…とその記憶を思い出す。
相変わらず自慢の相棒達だ、と彼女は口元に笑みを浮かべた。
まだ身体の自由はききそうにないが、思考の方はそれなりに冴えてきている。
「さぁ、もう一眠りなさってください。夕方になればイルミ様が戻られますから」
「夕方…?」
「…?あぁ、もうお昼も回っていますよ。半日ほど眠っておられましたから」
シュレイヤの言葉にコウは「半日も…?」と驚きに軽く目を見開く。
思っていた以上に時間が経っていたらしい。
そんな事を考えている間にもシュレイヤは一仕事を終えて寝室を後にする。
くれぐれも身体を休めるようにと言い残したが、無理に眠らせようとはしなかった。
半日眠っていたのだから、簡単には眠れないだろうと言う彼女の計らいだ。
彼女が部屋を去り、コウは自室に一人になる。
自然と目線は大きな窓の方へと移動していった。
シュレイヤが気を使ってカーテンを開いていってくれたおかげで、木漏れ日差し込む中庭が一望出来る。
こうしてぼんやりと過ごすのは久しぶりだと感じた。
「…最近仕事で忙しかったしね…」
正確に言うと、忙しくしていた、になるだろう。
休むも忙しくするも、彼女の決断一つなのだから。
熱を出すのも久しぶりだ、とコウは口元に苦笑を浮かべた。
それ以上何を考えるでもなく、彼女は瞼を下ろす。
暫くは眠れないだろうと思っていたのだが、身体は想像以上に休息を求めていたようだ。
沈み行く意識の中で、コウはそんな事を考えていた。
そっと硝子でも触れるかのような優しい感覚。
ひんやりとした温度と共にそれを額に感じ、ゆったりと意識が浮かんでくる。
先程の目覚めよりもすっきりとした視界。
それと共に、身体の自由がある程度戻っている事に気付いた。
「…調子は?」
何を映すでもなく開いていた眼で、声の主を探す。
簡単に見つけたその人は、ベッドの脇に置いた椅子に腰を下ろし、コウに向かって手を伸ばしていた。
「…大分マシになったみたい」
もう動けるよ、とそう言って身体を起こそうとするコウ。
だが、少しばかり浮いた彼女の身体は肩を押す軽い力によってシーツへと戻る。
それと同時に、首筋にひんやりとした彼の手を感じた。
「まだ熱は残ってるよ」
だから大人しくしていろ。そう裏に含んだ声色で彼はそう言った。
空いている方の手で読んでいた本は、すでに閉じられて彼の膝の上。
自身の首元に添えられる手の甲からの温度にコウは心地よさを感じる。
確かに彼女よりいくらか低い体温を持つ彼だが、ここまで冷たく感じる事は無い。
未だ自身のうちに普段よりも高い熱があることを、認めざるを得ないようだ。
「気持ちいい…」
滑り落ちた言葉にイルミの目が軽く開かれる。
しかし、体温を確かめた後引こうとしていた腕はその場に止まり、彼女に冷たさを提供し続けた。
「毒は?」
「もう大丈夫みたいよ。一時的な痺れもすっかり抜けてるし。後は…熱だけかな」
自分の手に頬から首を摺り寄せる彼女は、どこか猫を思い出させる。
その行動にイルミは口元を僅かに緩めた。
変化は本当に小さいもので、コウですら気付けなかったが。
「所で…何で気付いたの?」
不意に、彼はずっと気になっていたことを問いかける。
言葉の意味するところは、あの状況での彼女の行動だろう。
彼女の制止の声が飛んだかと思えば目の前の箱が弾け、中から自由奪う毒ガスが噴出した。
それに続いた毒蛇の攻撃。
イルミとて警戒していなかったわけではないが、気付けなかったのは油断だと自覚している。
だからこそ、次にこのようなことが無いように彼女に聞いておく必要があった。
「香り」
少しだけ沈黙した後、コウは短くそう答える。
右手に彼女の熱が移ってしまったのか、すっかり温かくなってしまった事が不満らしい。
彼女はイルミの反対の腕を引き、再び子猫宜しくそれに擦り寄った。
「あの蛇、花の中を根城にするから、皮に香が残るのよ。その花も結構希少価値の付いたものだから」
「あれだけ離れてて、わかったの?」
「鍵に香りが残っていたのよ」
彼女の返答に、そう言えばあの時鍵を渡したのはコウだったと思い出す。
あの一瞬でそれを嗅ぎ分け、尚且つ自身の記憶から正しい答えを導き出すその洞察力には驚かされる。
「…最後の男は?」
「あぁ、部屋に入る前に…視線を感じたような気がして………後は、勘」
笑ってそう答えたコウ。
そんな彼女を見下ろし、イルミは小さく息を吐き出した。
そして、腕を掴まれたまま椅子から立ち上がる。
「イルミ?どうし…」
言葉は、重ねられた唇から彼の口内へと吸い込まれる。
06.05.09