Free  act.57

幼くしてコウは『現実』と言う、決して綺麗なだけではないものを知った。
代わりに、彼女は本来少女の頃に自然と異性に抱き、成長と共に育んでくる感情を知らずに育つ。
普段の言動が冷静沈着であったとしても、彼女はまだまだ若い。
少女と呼ぶには大人びていて、女性と呼ぶには先ほど話した感情が足りない。
双方の間を揺れるコウの世界は広いようで狭かった。


泣き腫らした瞼が少し重い。
ここ数年分のそれが流れたのではないかと思うほどに、涙を流した。
落ち着く思考に伴って、自身の行動に関する罪悪感がむくむくと首を擡げてくる。

「考え無しで、ごめん。よく考えたら…ううん、考えなくても…自分勝手で、どうしようもないよね」

浮かべた苦笑は本心だった。
隣ではなく向かいに腰を下ろす彼との間に、すでに見えない距離を感じる。
言葉を紡ぎ終えるや否や、前に座るイルミは口元に笑みを浮かべた。

「いつも冷静すぎるほど冷静なのにね」
「…ごめん」
「でも、そう言う所…好きだから」

彼の声に、落としていた視線を持ち上げる。
いつになく豊かな表情を見せるイルミは、決して哀しいそれを浮かべてはいなかった。

「昔からだよね。俺の事になると、慌てて…一人で突っ走って。
普段の冷静さをどこかに忘れてきたみたいに。例えるなら猪って感じに猪突猛進で、行動してから後悔して」

スラスラと使える事無く告げられる内容にコウは内心口元を引きつらせた。
彼の言う内容には嫌と言うほど覚えがある。
現に、こうして何も考えずに本能のままに動いてしまっているのだから。

「困らせるってわかってるけど、好きだよ」
「イルミ…」

その言葉に俯き、回らない思考で必死に考える。
今度こそ、理性で以って一番適切な言動を。
そう思っていても、やはり頭は上手く動いてはくれなかった。

「クロロが、好きなの」
「知ってる」
「だから…………………ごめん」

結局唇から零れた言葉は今までのものと変わらなかった。
考えれば考えるほどそれしか浮かばず、深い思考とは全く無縁の泥沼へと沈んでいく。
それがどうしようもなく歯痒かった。

「はい、終了。それ以上の謝罪は聞かない」
「……………」
「コウ」

名前を呼べば、俯けていた視線を持ち上げて絡める。
躊躇う素振りを見せつつも正面から見つめる彼女にそっと笑みを浮かべた。
イルミは座っていたソファーから腰を上げ、コウ前に膝を着く。
ソファーに座る彼女の方が、僅かに視線が高い。

「キスしていい?」
「え?」

問い返すコウの声を無視して、彼はそっと彼女の頬に手を滑らせる。
触れた掌に彼女が肩を揺らした。
だが、唇同士が触れる直前に、彼女の手がその間に滑り込む。

「だ、駄目」

限りなくゼロに近い距離に頬を染め、それでもコウは小さくそういった。
その不器用さに、彼は思わず喉で笑う。
そして近づけていた身体を離し、自身の唇を彼女の掌に押し当てる。

「そう言う、恋愛初心者な所も好きだよ」

本気でなかったにせよ、彼女が自分の行動を止めた事に安堵する。
勢いに飲まれ、そのまま止める事さえできない程度の思いながら、引くことが出来なかったかもしれない。
恐らく、彼女がこんな反応をするのは自分とクロロだけ。
それ以外が近づこうものなら秒単位の時間で床へと沈められるだろう。
自分の行動に取り乱し、焦り、困る。
そんな変化が、自身の位置を示しているようでどことなく嬉しさを感じさせるのだ。
彼に並ばずとも、彼女の中での位置が特別である事がくすぐったい。

「もう、行きなよ。迎えが来てるし」
「迎えって…」

彼の言葉にコウは思わず眉を寄せる。
そんな彼女の背中を指差すイルミ。
自身の背中側には、大きすぎるベランダしか存在しない。
振り向く彼女の耳に、カタリと窓ガラスの動く音が届いた。

「クロロ…」

どことなく草臥れた様子の彼は、コウの声に肩を竦めた。
そしてそのまま深い溜め息を漏らす。

「随分、躾の行き届いた番犬だな」
「殺し屋の家を守ってるくらいだからね」

飄々と答えるイルミに、彼は危うく殺されかけた、と呟く。
殺されないところに彼の凄さを感じるのは、決して可笑しい事ではないだろう。
念能力を使えないと言うのによくミケから逃げ延びたものだ。

「待っててって言ったのに…」
「イルミに呼ばれたんだ。いいから必要なものだけ用意して来い」

待ってるから、と彼は駆けよってきたコウの背中をドアの方へと押す。
後ろ髪引かれる様に振り向きながらも、彼女は止まる事無く部屋を出て行った。

「で、話は?」

パタンと扉が閉じる音を聞き、クロロは窓の横の壁に背中を預け、そう問いかける。
ソファーに座ったままのイルミが彼の方を向いた。

「コウを頼むって。ライド=スフィリア…コウの実の父親からの言葉だよ」
「俺に話してどうするんだ?」
「選んだのはクロロみたいだからね。一応、伝えておくよ」

守るも守らないもクロロ次第、とイルミは言う。
そんな彼の様子にクロロは軽く溜め息を落とした。
守らないわけがない。

「お前が殺したのか」
「うん。仕事だったし…何より、アイツがそれを望んだから」

殺し屋が部屋を訪れた時点で、自分を殺しにきたのだと悟っていただろう。
それでも逃げる事無く臆する事無く、彼は最期にその優しさを垣間見せた。

「コウには話してないよ」
「…そうか」
「話はこれだけ。コウの部屋はこの上の階の一番東」

部屋を横断するように歩き出したクロロの背中にイルミからの案内が掛かる。
それに頷き、彼はドアノブに手をかけた。

「コウに言っておいてよ。泣かされたらいつでも戻っておいでって」
「必要ないが、伝えておくよ」

ふっと笑みを浮かべ、クロロはそのまま廊下へと出て行く。
再び閉じられた空間に残ったイルミは肩を竦めて天井を見上げた。
















数回のノックの後の沈黙。
部屋の主からの返事がない事で、一瞬部屋を間違えたかと考えた。
しかし、東に位置する部屋はこの一部屋のみで、間違えるなど有り得ない。
刹那の躊躇いの後クロロはドアノブに手を伸ばし、それを下へと下ろした。
鍵の掛からないドアはそれだけでキィと徐々にその入り口を開いていく。
音もなく室内へと侵入を果たし、扉を完全に閉めたところで沈黙が破られた。

「情報屋って言ってもさ、結局自分の事に関してはさっぱりみたい。特に…恋愛においては」

ベッドの上に腰掛け、窓の外を見つめていたコウはそう言い出した。
その背中を見つめる形で歩み寄るクロロ。

「今まで、誰にも教えてもらわなかった。母さんは…そんなもの、無意味だって言ってたしね」

浮かべているのは苦笑だろう。
声色からそう悟る事のできる彼女の言葉は続く。

「正直なところ、好きって言う感情もよくわからない。何か…想いだけが先走って、周りを掻き回してる」

静かに紡ぐ彼女の背中はいつも以上に小さく見える。
わからないと言う彼女は見た目通りに…いや、それ以上に幼さを感じさせた。
彼女は今まで生きる事に精一杯で、大切なものを持つと言う事に対して恐れすらも感じている。

「いっそ、感情の中に優劣がなければいいのに」

平等であれば、そこから何かを選び出す必要もない。
想う心も想われる心も同じであれば、誰か一人を傷つけなくても済むのに。
そんな考えすら脳裏に浮かぶ。

「人間って奥が深いね」

嫌になってくる、と言った彼女を背中から抱きしめた。
いつもと変わらないはずの身体が一回り小さく感じる。




持て余すくらいならば、いっそ捨てられれば。
それでも、この感情だけは手放したくないと言う矛盾。
好意という感情だけが複雑に交差して、見えない迷路を生み出しているような錯覚。
未知の領域は少しばかりくすぐったくて、それでいて酷く恐ろしさを感じさせるものだった。

06.05.15