Free act.56
コウは走っていた。
角を曲がるために速度を落とす事さえ億劫なほどに、ただ只管。
これほどまでに、あの部屋までの距離を疎ましく思ったことはない。
ルシアを呼ぶ事すら忘れて、コウは只管ブーツの底で床を鳴らした。
「イルミッ!!!」
扉が開く間すらも邪魔でしかない。
半ば飛び込むようにして、コウは部屋の住人の名を叫んだ。
「漸く、決心することが出来ました。私は…スフィリアの名を継ぎます。」
シン…と静まりかえった部屋の中に、コウの声だけが響いた。
煩いほどに弾む鼓動を誤魔化すようにして言葉を繋げる。
「今までずっと逃げさせてくださって、ありがとうございました。けれど…もう逃げません。
正面から父の…今までの当主が守ってきたあの家と向き合うつもりです。」
自分でもわかるほどに緊張している。
汗ばむ手を自らのそれで包み込むようにして握り締め、コウは続けた。
「勝手な事とはわかっています。それでも、お願いします。イルミとの婚約を解消してください。」
コウは深く頭を下げた。
「…やれやれ…お前はわしらが反対すると思っておるのか?」
さほど時間をおかず、ゼノが声を発した。
反応するようにして、コウは頭を上げる。
そして、否定の意を示すように首を振った。
「一つ、聞きたい。婚約を解消する必要があるのか?」
シルバの言葉に、コウは一度頷いて口を開く。
「私なりのケジメです。一からやり直す覚悟ですから。」
「…なら、俺は反対しない。」
柔らかい表情を浮かべてそう言ってくれたシルバに、コウは漸く固い表情を崩した。
彼の隣ではゼノが肩を落としている。
「わしも反対はせん。……コウほどイルミの婚約者に向いとる女はおらんと思ったんじゃが…。」
「その点は俺も同感だな。」
「ごめんなさい…。」
二人の言葉に、コウは苦笑を浮かべながらそう答えた。
彼らがコウを責める為にそう言っているのではないとわかっているからである。
「あの…キキョウさんには私からお伝えしますから…。」
「そうだな。俺達よりもむしろあいつの方が厄介だろう。殺されないようにしろよ。」
「大丈夫ですよ。……きっと。」
視線を逸らしながらも、コウは笑った。
確かに、キキョウはコウの事をこれでもかと言うほど可愛がっていた。
我が子同然と言っても決して過言ではない。
そんな彼女にこの家を出る事を告げるとなると……それなりの覚悟が必要だった。
ある意味、シルバやゼノに告げる以上に。
「イルミの奴は納得しただろう?」
「あ、はい。彼も賛成してくれました。」
「そうか…。」
「シルバ、暫くイルミの仕事を外してやれ。失敗されても敵わん。幸い急ぎの仕事もない。」
「そうだな。」
そんな二人の会話に、コウは首を傾げた。
何故イルミの仕事の話がこの場に上がるのか。
コウにはそれがわからなかった。
「あの…イルミ、どこか調子悪いんですか?」
コウが達した結論はそれだった。
彼女の言葉に、ゼノは首を横に揺らす。
ゼノの代わりに口を開いたのはシルバだった。
「イルミはイルミなりにお前を大切にしていた。ただそれだけだ。」
「え…。」
シルバの言葉に、コウは驚いた表情を隠さずに目を見開く。
殺し屋としてもそれなりの実績を誇るコウであるが、いつまで経っても表情を消さないな…。
場違いかもしれないが、シルバはそんな事を考えていた。
「あいつは自分の感情を隠す。そう言う風に育てたからな。それを悟れるのも、お前だけだった。」
「……………。」
「イルミが止めなかったなら、俺達がお前を止めるわけにはいかない。だが、これだけは言っておく。
イルミは確かにお前だけは大切にしている。感情を見せるのも…コウ、お前だけだ。」
コウの青い目が揺れる。
彼女は弾かれるようにして部屋を飛び出した。
傷付けた。
誰よりも、この家の誰よりも一緒に居てくれたのに。
彼は言ったではないか。
『止める理由がないから』と。
理由があれば、止めたのだ。
それだけ……想ってくれていたのだ。
「イルミッ!!!」
行き成り飛び込んできたコウに、イルミは珍しく動きを止めた。
驚いたような表情は見せなかったが。
「…どうしたの?そんなに急いで。父さん達との話は?」
肩で息をしているコウに、キッチンから水を運んで差し出す。
それを受け取らず、コウは体当たりの様にイルミの胸に飛び込んだ。
さすが鍛えているだけあって、危なげなく彼女を受け止め、なおかつ水も零さない。
彼女の様子に、イルミは不思議そうに見下ろした。
「ごめん…なさいっ……!!私…勝手ばっかりで…自分の事ばっかりで…っ!」
「…コウ?」
「イルミの気持ちも何も考えないで…勝手に決めて…。
結局最後の最後まであなたの優しさに甘える所だった。しかも、自分で気づかずに…っ。ごめんなさいっ。」
縋るようにイルミの着衣を握って、コウが顔を上げた。
綺麗な青い眼から涙が零れる。
「…別に、俺怒ってないよ?謝られるような事何もしてないし…。」
「それでも…っ!何一つわかってなかった…。何も相談せずに決めて…全部一人でやれた気になって。」
柔らかい空気で送り出してくれたから、安心してしまっていた。
自分の行動が誰かを傷付けるなんて夢にも思わず。
ただ、新たな一歩を踏み出せる事を喜んで、浮かれて。
笑って…とまでは行かなくても、優しい表情で「気をつけろ」と言ってくれたイルミに甘えていた。
「ごめん…なさい…。」
再び俯くコウ。
ポタポタと雫が頬を伝って床に落ちる。
イルミは軽く溜め息をつくと、持ったままだった水をテーブルに乗せる。
そして、落ち着かせるように彼女の背中を叩いた。
「俺の事はいいって言ってるのに…頑固だね、コウは。」
「だって…。」
「はいはい。わかったから少し落ち着きなって。何も言わなくていいから。謝罪の言葉なんて…聞きたくない。」
「―――――――…っ!」
一度流れ出た涙を止める術はない。
背中に添えられた手の暖かさを感じながら、コウは只管泣いた。
自分でもわからないの。
このままあなたの傍に居るのも一つの道なのかもしれない。
それでも、私は――――『彼』と、一緒に歩きたい…。
06.05.11