Free  act.55

――コンコン――

「っ!」

ドアをノックする音でコウは目を覚ました。
頬にかかっている髪を掻き揚げながら起き上がると、部屋の中を見回す。

「いつの間にか寝てたのね…。」

――コンコン――

再度ノック音が部屋に響く。
慌ててベッドから起き上がると、コウはドアを開けに走った。

「ごめんなさい。」

ドアを叩く人物が誰なのかも確認せずに、コウはそれを開いた。

「……イルミ?」
「他の誰かに見えるなら医者を紹介するよ。」

サラリと返答するのは羨ましいほど綺麗な黒髪の人物イルミ。
きょとんと見つめていたコウだったが、我に返るとイルミを部屋に通すべく道をあける。
だが、イルミは黙って首を振った。

「父さん達が予定よりも早く帰ったみたい。それを伝えに来ただけだよ。」
「あ、そうなの?ありがとう。…ゴトーさんは?」
「丁度こっちに向かってる所だったから、代わりに行くって断った。」
「…珍しいわね。ゴトーさん驚いてたでしょ?」
「まぁね。」
「でも…ありがとう。助かったわ。」
「多分すぐに時間を取ってくれると思うよ。今回の仕事は全然疲れるような物じゃなかったみたいだから。」

ドアに手をかけたままだった事に気づいたコウは、それから手を放して廊下へと出る。
そんな彼女に、イルミがそう告げた。

「そっか。じゃあ……。」

行ってくる。そう言おうとしたコウだったが、ふと口を噤む。
不思議そうに見下ろすイルミの視線にぶつかると、コウは曖昧な笑みを浮かべた。

「先に当事者に話さないと…ね。今時間ある?」
「まぁ、する事はないよ。」
「じゃあ入ってくれる?話があるの。」

先ほど閉めたばかりのドアを開くと、コウは中へとイルミを促がす。
今度はそれを拒否せずに素直にドアをくぐるイルミ。
誰も通らない廊下を一瞥すると、コウはドアを閉めた。










出来るだけ静かで日当たりのいい部屋、と用意されたコウの部屋は、期待を裏切らない。
考え事をするには持って来いだと思えるほど、静かで、そして優しい空間だった。

突然の客にも対応出来るように、ゾルディック家の住人+コウの部屋にはそれぞれキッチンが設けられていた。
カチャカチャと陶磁器の触れあう音がその室内に木霊する。
程なくして、コウがティーポットとカップ、そして軽いお菓子をトレーの上に載せて戻ってきた。

「お待たせ。」
「別に気を使わなくていいのに…今日は変だね。」
「美味しい葉が手に入ったの。誰に出すわけでもないからね。」

そう言って微笑むと、コウは程よくティーポットを傾ける。
澄んだ琥珀色のそれがカップの中へと流れ込む。
それを見て、イルミが感嘆の意を表した。

「へぇ…変わった色だね。」
「うん。珍しい色よね。…はい、どうぞ。」

カップをイルミに差し出すと、漸く彼の向かいへと腰を降ろした。

「で、話って?」
「……一口くらい飲んでくれてもバチは当たらないんじゃないかしら…。」
「…………………。」

そう言われると、飲まずにいる自分が悪いようである。
仕方なく、話を促がす前にティーカップに口をつけた。
丁度良い温度に冷まされたそれが、するりと喉を通っていく。

「…悪くないね。」
「でしょ?」

クスクスと嬉しそうに微笑むと、コウ自身もそれを飲んだ。
そして、カップを戻すと背もたれに沈むようにして僅かに身体を寛げる。
イルミはもう促がすようなことはせず、ただ彼女が話し出すのを待った。

「…あのね、この家を出て行こうかと思うの。」

色々と言葉を悩んだようだったが、コウの口から滑り落ちたのはそんな簡単なものだった。
考えれば考えるほど。
悩めば悩むほど、単純な言葉になってしまうのは何故だろうか。

「ちゃんと、スフィリアの名と向き合いたいの。だから―――」
「うん、いいよ。」

一瞬口を噤んだコウだったが、イルミは先に返事を言ってしまった。
驚いたのはほかでもないコウ。

「いいの?」
「コウがちゃんと向き合いたいなら、好きにすればいいよ。俺は別に構わない。」
「婚約解消…って事になるのよ?」
「…わからないほど頭悪くないよ。それに……俺にはそれを止める理由がないから。」

黒曜石のような眼が、真っ直ぐにコウを見つめる。
彼の話す事は全てコウにとっては願ってもないことである。
この場で彼が婚約解消を拒否したならば…いくらシルバの所に申し出ても意味を成さない。
それゆえに、深く追究しないイルミに、コウの方が呆気に取られていた。

「元々コウをこの家の者として迎え入れる為の婚約でしょ?」
「そう…ね。」
「父さんも、コウが向き合うって言うなら手放しで喜んでくれると思うよ。」
「シルバさんが手放しで喜ぶって言うのは想像できないわね。」

漸く自分を取り戻したのか、コウに笑顔が戻った。
ふわりと柔らかく微笑む。

「ありがとう。」
「父さんを待ってたのってこの話?」
「ええ。早い方がいいって言うから…。私もそう思ったし。」
「“言うから”ってことは、第三者がいるわけだ。…クロロ?」

それを言いそうな人物……いや、コウが自分の決意を話しそうな人物を思い浮かべて、イルミはその名を紡ぐ。
コウは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を戻して頷いた。
それだけで大体の事情を悟ったイルミはそれ以上何も言わない。

「……勝手でごめんなさい。少し前から考えてたんだけど…中々機会がなくて…。」
「クロロの旅に付き合うって事…だよね?」
「うん。いくら蜘蛛の団長って言っても、念能力が使えないんじゃたかが知れてるし。」
「気をつけていきなよね。クロロの念能力を封じた奴が邪魔してくる事は間違いないだろうから。」
「………わかってる。ありがとう。」

イルミの言葉に、コウは彼の念能力を封じた人物――クラピカを思い出した。
彼が邪魔をするとは思いたくないが…クロロが彼の敵である以上、その可能性も捨てきってはいない。
悲しげに目を伏せて、イルミの言葉に頷いた。

「父さんなら部屋に戻ったと思うよ。行くなら早くした方がいい。」

彼女の反応に気づいてか、イルミが話を変えるようにしてそう切り出した。
思い出したように顔を上げると、コウは頷く。

「行って来るわ。あ、時間を割いてくれてありがとう。また後でちゃんと報告に行くから。」
「わかった。多分許してくれると思うけど…駄目だったらキルみたいに出ていきなよ。」
「まさか。シルバさんを攻撃してまで出て行かないわ。それに、私みたいな小娘には傷一つ付けられない。」

クスクスと笑ってそう返事を返すと、コウは立ち上がった。
同じく立ち上がってドアの方へと歩き出していたイルミを見送ると、部屋を出る。
反対側の廊下へと歩いていくイルミの背中を見つめるコウ。
サラサラと綺麗に揺れる黒髪が小さくなって…やがて角を曲がって見えなくなった。





この時点で、本当は気づいていたのかもしれない。
いや、おそらく気づいていた。
それでも…彼の言葉に甘えて、気づかないようにしていた。

06.05.03