Free act.54
来週の火曜の夜10時決行。屋敷の見取り図だけ用意しておいて。
そんなメールがコウのケータイを揺らしたのは、決行の日の丁度一週間前。
その翌日にはすでに見取り図も整っており、準備はなんら問題なかった。
予想外だったのは、どこからか漏れた情報のおかげで、相手側に余裕が出来てしまった事。
日頃の自身の行いを省みるような人間であれば、覚悟を決める時間としたかもしれない。
しかし、今回の相手はそんな人間ではなかった。
「大した大富豪ね」
今回のターゲットの資料をめくりながらコウが呟いた。
自身の資産を遥かに下回るそれなのだが、世間一般からすれば立派に大富豪と呼べる人間だ。
ぺらぺらと資料を走り読み、コウは眉を顰める。
かなりあくどい方法で資金を調達していたらしい。
依頼主の方も、ターゲットへの憎悪からこの仕事を依頼したようだ。
「…ま、別に私達がどうこうするものでもないけど…」
やっぱりあまり嬉しいものではない、とコウは溜め息を落とした。
他人の問題に巻き込まれるほど面倒な事は無い。
特に、憎しみやら怒りと言う不の感情の場合は尚更。
椅子に座るコウを見上げてきたルシアと、膝の上のスノウを撫で、コウは目を閉じた。
見取り図はすでに地下室に至るまで細かく頭の中に入っている。
準備など特に必要は無いだろうと、彼女は脳内でそう考えた。
そしてふと、最近は潜入して情報収集をするなどあまり暗殺の方の仕事を手がけていなかった事を思い出す。
「頭を切り替えないとね」
誰に言うでもなく、自身を戒めるように彼女は呟く。
黒いタートルネックのノースリーブを上半身に纏い、下も同じく黒のスラックスに足を通す。
その上から軽い素材で出来たベストを羽織り、彼女は太股にベルトを巻いた。
それにホルダーを引っ掛けると、テーブルの上に置いていた銀色に光る銃をその中に押し込む。
自身の指に青い宝石の乗った指輪があることを確認して、その銀の髪を結い上げた。
ふわりと入り込んできた夜風にその身を躍らせながら銀糸が高めの位置でその動きを制限される。
片手で耳のピアスを外し、小さな石が乗っただけの質素で邪魔にならないものに取り替える。
部屋の端においてある姿見の前で自身の姿を確認し、彼女は頷いた。
仕上げとばかりに腰にウエストポーチを装着すると、流れてきた銀糸を後ろへと払う。
彼女の準備が整うと同時に、部屋の扉が来客を告げた。
「時間ぴったりね」
まるで今から暗殺の仕事をこなすとは思わせない笑顔でクスリと笑い、彼女はルシアを扉の方へとやる。
客は小さな声の後にルシアに連れ添われ、奥のコウが用意をしていた部屋に入ってきた。
いつもと何ら変わらぬ様子のパートナーに、彼女はふっと笑みを見せる。
「用意出来た?」
「ええ。いつでもOKよ」
そう答えれば満足げに一度頷くイルミ。
ならば早速出発だとばかりに踵を返す彼。
その黒髪に手を伸ばし、傷めないようにそれを引く事で彼の足を止める。
何事かと振り向く彼の頭を向こうに押し戻し、コウはポーチからヘアゴムを取り出して自身の手首に巻いた。
その後櫛を通す必要が無いほどサラサラの髪を纏め、低い位置で束ねる。
名残惜しそうにその黒髪を離すと彼女はイルミの隣に立った。
「邪魔にならないの?」
「別に何ら問題は無いよ」
「ふぅん…。でも、汚れるのも嫌だから解かないでね」
解いてしまいそうな彼にそう言っておくと、コウは先に歩き出す。
目を閉じていても容易に歩き回れる自身の屋敷を玄関へと進み、その扉を開いて彼の到着を待った。
彼女に少し遅れつつもイルミはその玄関を抜ける。
「飛行船は裏に用意してあるわ。近くまではそれで行くんでしょう?」
「ああ。助かるよ」
「こっち。ついて来て」
くるりと裏に回るように建物の脇を通っていくコウに続き、イルミも歩いた。
その間に言葉を交わすと言えば、コウが話してそれに相槌を打つ程度のもの。
慣れない者からすれば居心地の悪すぎる空間ではあるが、彼女にすれば最も過ごしやすい場所だとも言える。
幼い頃からの慣れで、彼の性格は十分に理解している。
二人の姿は夜の闇に溶け込んだ。
自動操縦モードに切り替えると、コウは背もたれに深く背中を凭れさせる。
ポーチに押し込んでいたケータイを片手で探り当て、それをパカリと開いた。
アンテナ付近がピコピコと光っていた事から、メールでも受信したのだろう。
画面はすぐにメールボックスへと繋がれた。
差出人やその内容を読むと、コウはクスクスと笑う。
「どうかした?」
操縦室に戻ってきたイルミがその笑い声を聞きつけて彼女の元までやってきた。
コウは立ったまま椅子に肘を置いた彼を見上げ、口を開く。
「今度私の家に可愛いお客さんを招く事になりそうなだけよ」
「可愛い客…?」
「そ。二人ほどね」
そう言ったコウの表情から、彼はその『客』が誰なのかを悟った。
自身の家に電話を掛ける彼女を眺めながら、彼は特に何を言うでもなくその隣の椅子に腰を下ろす。
ニコニコと嬉しそうな笑顔で電話を終わらせた彼女に、イルミは問いかけた。
「そんなに嬉しい?」
「うん。だってあの子達可愛いんだもの」
自慢の弟とその友達、と彼女は言った。
言葉に迷いはなく、彼の友達さえも自身の弟だと言いそうな勢いだ。
尤も、彼女自身は二人とも肉親のように可愛がっているが。
「…それだけ可愛がっておいて、よくあんな危ない目にあわせたね」
「………子供なんて好奇心の固まりだし…あまり制限させるのも良くないでしょ」
だから仕方が無かった。
彼女はそう言いながら先程とは裏腹に溜め息を一つ。
一歩間違えばあの小さな身体が冷たくなるのを目の当たりにしなければならなかったのだ。
今更ながらに背筋が逆立つのを感じる。
何があっても止めるつもりではあったが、本気で敵対すればあのメンバーから守りきる事は難しかっただろう。
友好な関係にあってよかったと思う。
「あんまり大事にしないでね。キルの勘が鈍るから」
「…失礼ね。実力を落とすほど猫可愛がりしているつもりは無いわよ」
「はいはい。あぁ、見えてきたね。この辺りに下りようか。あまり近づくのはよくないし」
むっと口を尖らせるコウをさらりと流し、彼は前方の小高い丘に建つ屋敷を指した。
今進んでいる辺りは開けていて、飛行船を下ろすには丁度いいだろう。
コウは流れるような指の動きで操作盤を動かし、その場に着陸するようセットする。
この飛行船は彼女専用に作られており、他の誰にも…無論、イルミにも操作する事は出来ない。
キーボードの並ぶ操作盤は特殊で、一つの動作にも専用のコードがあり、それを入力しなければならないのだ。
しかも間違えれば動作が行われないだけでなく、何の反応もなく10秒後に爆発すると言う恐ろしい代物だ。
それを完璧に使いこなしているコウは流石と言えよう。
「自動で降りるから準備しましょう」
カタンと最後のキーを打ち込むと、彼女はそう言ってベルトを外すと彼女は自身の荷物の方へと歩き出した。
あまり大変な仕事ではないからと、今回はルシアもスノウも連れてきていない。
「あぁ、忘れてたけど…自動操縦の切り替えと解除、後帰省モードの設定のコードだけ教えておくわ」
「何で?コウがいれば問題ないでしょ?」
「…ま、一応ね。私が居なきゃ動かせないってのも困るでしょ?この三つだけ覚えてれば屋敷には帰れるから」
まず自動操縦の設定、そう言ってコウはゆっくりとキーを打ち込む。
言い出せば聞かない彼女の事だ。
どうやっても教えるのをやめはしないだろうと即座に諦めをつけ、彼は素直にその指の動きに集中する。
設定と解除を三度ほど繰り返し、その後に帰省モードの設定を指の動きだけで教える。
流石に此処までやってきたのに屋敷に帰るなどという無駄足を取るつもりは無い。
「覚えた?」
「…一応ね」
「そう。この程度なら簡単でしょ」
そう言って再び自動へと切り替え、彼女はシートから立ち上がると身体を伸ばす。
この程度ならというが、一つ25個からなる不規則な文字の羅列を覚えるのは一苦労だ。
それを三つ…それだけですでに75。
飛行船の操作自体には50以上の手順があるのだから、それを一つ一つ覚えている彼女はまさに賞賛に値する。
天性の才能だな、とイルミは口に出さずに考えていた。
動く事を厭わないので忘れがちだが、彼女はやはり頭脳派なのだ。
そう思わずには居られないイルミなのだった。
06.04.24