Free  act.53

少しとは言え依頼を断っていた反動は大きかった。
久しぶりに休みを取れたのは10月も半ばを過ぎた頃。
酷い時には一日数件の依頼を引き受ける日もあり、コウの貯金はこの一ヶ月だけでも倍ほどに膨れ上がったと思われる。
「一日が24時間では足りない」と彼女がぼやいたのは、一ヶ月の間に一度や二度の事ではなかった。
倒れるほどに柔な身体ではなかったが、疲れは自然と溜まる。
久々の休みを満喫したいと訴える身体に従い、その身をシーツに沈めたのは今からおよそ20時間前。
ほぼ一日寝倒したな…などとまだ冴えない脳裏で考えると、コウはまずは頭を起こそうと立ち上がる。
自室の奥のバスルームへと彼女の姿が消え、数秒後にはシャワーの水音が寝室まで聞こえてきた。

部屋に広がる絨毯の上に寝そべっていたルシアがピクリと耳を揺らす。
首を擡げるルシアの視界には、ノックの後に控えめな音と共に開かれつつある扉。
一人の来訪者に、主なき部屋は侵入を拒まなかった。










「何してんの。ここ私の部屋…って言うか、私の屋敷だよね?」

白いタオルに銀髪を押し付けつつ、コウは人の部屋で寛ぐ人物に声を掛ける。
彼女は自身の言葉の後、確認するように室内に視線を彷徨わせる。
無論、目に入る光景は見慣れすぎている自身で使いやすくかつシンプルにと考えたレイアウトだ。
ソファーに我が物顔で座り込んでいた彼は本からちらりと顔を上げ、またそれに視線を落とした。

「今更」
「あー…まぁ、確かに今更は今更だけど…」

呆れたように溜め息を吐きながらコウはバスローブの紐を結び直した。
すぐに着替えるからと緩く縛っていたのだが、流石に彼が居る限り着替えは無理だろう。
今までの経験上、諦めと共にそう判断した彼女の行動は早かった。
丈は膝まであるし、室内は前もって空調を利かせていたので風邪を引くことはない。
成人男性の前でこんな姿を晒す事には些か問題はあるが、それこそ『今更』だ。

「で?何か用事?」

止めていた手の動きを再開させ、コウは彼から斜めの位置にある一人用のソファーに腰を下ろした。
ある程度髪の湿気が取れたところで、その動きを止めてタオルを肩にかける。

「わざと忙しく仕事を組んでる誰かが珍しく屋敷に帰ったって聞いたからね」
「…ごめん。何か急用でもあったの?」

皮肉交じりの言葉に一言謝罪を述べ、彼女は再び問いかける。
イルミは彼女の問いかけに漸く本を読むのをやめた。
そして顔を上げて彼女の方を見る。

「次の仕事。時間があれば一緒にしてほしいんだって」
「…シルバさん?」

確認のようにコウが呟けば、彼はこくりと頭を上下させて頷く。
彼女はルシアに指示を出してベッドの脇の棚から手帳を運んできてもらう。
日付と予定を確認しつつ、時間が取れるであろう日を読み上げた。

「…って所ね。来月ならもう少し時間は増えるだろうけど…」

パタンと手帳を閉じつつそういった彼女に、イルミは大丈夫だと頷く。
擦り寄るルシアの頭を撫でつつコウは彼の言葉を待った。

「十分。再来週の頭に予定しといて。丁度俺も空いてるから」
「了解」
「詳しい事は俺から連絡入れるよ」
「ええ」
「特に難しい仕事じゃないから問題ないと思うけどね」
「そう」
「あぁ、それから…母さんがコウの依頼を半分断ってたよ」
「わか……………何それ?」

とんとん拍子に進んでいた会話の所為か、コウはそれを聞き流してしまうところだった。
予定を書き込んだ手帳の日付の上に残ったインクのシミに舌打ちしつつ、彼女はイルミを見る。

「どういう事?」
「だから、あんまりコウが仕事を詰めすぎてるから母さんが見かねて量を減らしてたって事」

彼曰く、今回組むことになっているのもそれが関係しているらしい。
確かにイルミと一緒ならば限界の所で彼が止めるので無茶はしないが…。
まだ不満げな様子で、コウは眉を寄せた。
そんな彼女の表情にイルミは溜め息をつき、そして口を開く。

「忘れようとするのは勝手だけど、他に方法はあるんじゃないの?」
「…忘れるって言うよりは誤魔化してる。その自覚はあるけど…」

それでも、慣れない感情のやり場はなく、結果として仕事を詰め込むことで考えないようにしていた。
イルミあたりは気付いているだろうと思っていたが、やはり気付かれていたらしい。

「よく考えればさ…頼りない綱の上を歩いていたようなものなのよね」

目に見えない仲間と言う繋がりを信じて、盲目的に歩いていただけだ。
ふと視界を開いてしまえば、その不安定さを肌で感じ取ってしまう。
そんな、危ない足場に立っていた関係。

「本当はちゃんとわかってる…と思う。ただ、感情の切り替えが追いついていないだけ」
「…それをわかってないって言うんじゃないの?」
「そう…なのかも知れないわね」

苦笑を浮かべてソファーの背もたれに深く凭れかかる。
結局のところ、この感情を言い表す言葉など一つしかないのだ。

「…寂しい…のかな」

コウの呟きは思ったよりもはっきりとした音として室内に響く。
ぼんやり見つめる視界の隅でイルミが肩を竦めるのが目に入った。

「………本当に…暗殺者として育てられたとは思えないよね、コウって」
「あぁ、それは自分でも思うわ。いつか仕事の途中で刺されそう」

冗談交じりにそう言っては見るが、彼の言葉は常日頃から思っていることだった。
情報屋として生きる分にはなんら問題は無いのだが、暗殺を生業とした場合には大きな壁だろう。

「弱い…のかしら…?」
「感情の起伏が激しすぎるんじゃない?」
「そうかも」
「…コウってさ、父さん達に気に入られて無かったら絶対この家で生きてられないよね…」

どこか呆れた風に彼はそういった。
確かに、キルアの様子を見ていればいかに厳しいのかはわかる。
それと同時に自分はかなり甘く見られているのだということも。

「…まぁ、私の場合はそっちが本業じゃないし…そのおかげ、かな」

理解のある人たちでよかったと思わずには居られない。
手をかける部分から足を投げ出し、ソファーに横たわる。
一人用とは言え広めに作られたそれは、足だけを投げ出せば横になることも可能な広さがあった。

「寝るならベッドで寝ないと風邪引くよ」
「そこまで柔じゃないよ」

ひらひらと彼に手を振るとその手を瞼の上に乗せる。
部屋の明かりを遮るそれに、自然と閉ざした視界は眠気を誘った。
心地よい沈黙を破ったのは小さな溜め息。
視覚が機能していない今、聴覚が酷く敏感になっている。
次いで聞こえたソファーの軋みのあと、自身の身体にふわりと浮遊感を受けた。

「…どうしたの?優しいね」

目の上から手をどけると、先程よりも遥かに近い位置にイルミの顔があった。
不安定さを誤魔化すように彼の首に腕を回す。
間違っても落とされるなんて事は無いという確信はあるが。
ボスンという音と共にベッドの上に下ろされたのではなく、落とされた。
痛みは無いが、コウは恨めしそうに彼を見上げる。

「パートナーが風邪では仕事に支障があるからね」

しっかり疲れを取りなよ。
そう言ってコウの髪を撫でると、彼はそのまま踵を返して部屋を出て行った。
パタンと閉じられた扉を数秒間見つめ、やがてコウはベッドに倒れこむ。




「…本当は…旅団を抜けたことより大きな問題があるんだけどね…」

呟いた言葉を聴くものは、ルシア以外には無い。
自嘲の笑みを零しながら彼女は真上に伸ばした手を見つめる。

「好き…なのよね…。婚約者としてじゃなくて…一人の女として」

義務的なものではなく、ただ自身の心に従うままに。
考えるから。そう彼に伝えたのはもう一ヶ月以上も前の事だ。
あの時点で勢いのままに言ってしまえばよかったのに、何故こんなにも時間を置いてしまったのだろう。
自分自身を恨みたくなるのを止められない。
改めて伝えなければならないとなると、こちらの方面に関して経験豊富なわけではない彼女は酷く参っていた。
それを考えたくないが故に忙しさで紛らわしていたのだが。

「それも限界、か」

世界屈指の情報屋と謳われようが、所詮はただの女なんだな、と苦笑を浮かべる。
素知らぬ様子で旅団を抜けたことが寂しいと言うにもすでに限界がある。
今となってはそちらの方は割り切れているのだから。

「………………寝よう」

これ以上考え事はしたくない。とばかりにコウは頭からシーツを被る。
撫でられた部分が熱いような気がするのは、ただの錯覚だと自身を納得させながら。

06.04.17