水面にたゆたう波紋
047
グレミオの死を乗り越え、解放軍は今こそスカーレティシア城を攻め落とすべきとなった。
城を落とすためには、城を守る花の毒を無効化しなければならない。
ソニエール監獄から救出したリュウカンは、すぐにその作業へと取り掛かった。
「―――なるほど、この薬草をそのように…」
「私も、こちらの技法には驚きました」
コウは自らの持つ万能薬の知識が役に立つのではと、リュウカンと共に調合室にこもっていた。
「コウ殿の知識は不思議ですな。儂も、それなりに知識を深めたつもりであったが…これであの城の毒は無効化できますぞ」
「…よかった」
リュウカンの言葉にほっと胸を撫で下ろす。
この薬ができなければ、無理を承知で城全体にエスナをかけてみることも考えていた。
もちろん、それを求められるのであれば、コウは躊躇わずにそうしただろう。
そのあと、ルックに強いお叱りを受けることは間違いなかっただろうけれど。
「あぁ、ここにいたんですね、コウさん」
入口からの声に、室内の二人が振り向いた。
そこから立ち入らないのは、この部屋が薬品の調合部屋だと周知されているからだろう。
中には人体に危険なものもあるために、無許可での立ち入りは原則的に禁止されている。
「ティル様がお呼びですが…薬の進捗はいかがですか?」
「ありがとうございます」
「コウ殿、残りは儂に任せてくだされ」
既に薬が出来上がっている以上、リーダーに呼ばれているとあれば、優先すべきはそちらである。
リュウカンの言葉に頷き、衣服に付着しないようにと上から羽織っていた白衣を脱ぐ。
そして室内に設置された手洗い場で手を洗うと、リュウカンに頭を下げてから、自分を待っていた兵士と共に部屋を後にした。
案内されるままに城の中を進むと、広間へと辿り着いた。
そこに、ティルの姿を見つけ、兵士に「ありがとう」と声をかけて離れる。
兵士が一例と共に去るのを横目にティルの元に行こうとしたコウが、ふと彼の傍らの人物に気付いた。
それは、見覚えのない女性だった。
深紅の短い衣服は、どこかの民族衣装だろうか。
その女性はティルの傍らに膝を付いていたが、彼に何かを言われて慌てた様子で立ち上がった。
彼女の行動を見たティルが小さく笑い、彼女もまた、その表情に笑顔を浮かべる。
そのときの僅かに赤らんだ頬と、その表情が。
「―――」
コウは自分が奥歯を噛み締めたことに気付いていた。
しかし、その理由まではわからない。
自分の行動と、進もうとするのに床に縫い付けられたように動かない足と。
ザワリ、と胸の中で不快な何かが蠢くのを感じた。
すると、女性と話をしていたティルが勢いよく後ろを振り向いた。
「…コウ?」
小さく笑みを浮かべる彼に、コウもまたその顔に笑顔を張り付けた。
幼い頃から自分の病気を相手に悟らせないようにしていたから、感情を隠すのは得意だ。
「兵士の人から連絡を受けたわ」
「ありがとう。薬の方は?」
「何とかなりそうよ。リュウカンさんは良い薬師だわ」
コウの言葉に、そうか、と頷くと、彼は手招きをして彼女を隣へと呼んだ。
そっとコウの腰に手を添えて、女性へと向き直る。
「さっき話していたコウだ。コウ、彼女はカスミ。ロッカクの隠れ里の忍らしい」
「は、初めまして!カスミと申します!」
一度は立ち上がっていたカスミは、再びその場に膝を付いてしまう。
そんな彼女の行動に苦笑し、立ち上がるよう促すティル。
「よろしくお願いします、カスミさん」
「カスミと呼んでください。ティル様から、わからないことがあればコウ様に尋ねるようにと―――」
「それだけど」
カスミの声に重ねるようにして、ティルが口を挟んだ。
その様子にやや違和感を覚えるが、彼の言葉を待つコウ。
「よく考えたら、コウも僕と同じく色々と忙しくてね。君が慣れるまでのフォローは別の人に頼んでおくよ」
「はい、わかりました」
カスミの返事を聞くと、彼は頷いてから腰に添えていた手でコウの手を取った。
「コウ、行こう。打ち合わせしたいことがあるんだ」
そう促され、広間を後にする。
流れるようなエスコートであるが、彼の行動としては非常に珍しい。
戸惑いながらもその言葉に従うコウは、ちらりと後ろを振り向いた。
カスミの眼に羨望の色を見て、きゅっと唇を噛む。
会議室に向かうのかと思いきや、ティルが目指したのは彼の自室だった。
「…ティル?」
彼の自室に入ることは、そう珍しいことではない。
しかし、打ち合わせという名目で入ることは初めてで、コウは不思議そうに首を傾げた。
「打ち合わせは?」
「うん、また後でね」
そう答えると、ティルはコウの前へと進み出た。
そして、彼女が何かを言う前にグイッと顎を持ち上げる。
「…ティル…?」
「…気分は悪くない?」
「気分?ええ…問題はないけれど…?」
「そっか。…じゃあ、機嫌は?」
ティルにそう問われ、コウは再び首を傾げる。
機嫌は―――悪くない。
こんな風に真正面から彼の視線を独占していることが、むしろ心地よい。
そう考えたところで、あれ?と思う。
ティルの視線を独占なんて、今まで考えたこともなかった。
「…今の、機嫌は悪くなさそう…だね?」
今の、という部分が強調されているように感じた。
確かに、今の機嫌は悪くはなく、むしろ良いと言えるだろう。
では、今ではない―――そう、例えば、先ほどは?
沈黙の中で、そう問われているような気がした。
「…あ…私―――」
ふと思い出す、胸の中に蠢いた黒い何かの存在。
不快なそれの正体は、果たして。
戸惑うように揺れたコウの眼に気付き、ティルは口角を持ち上げた。
顎に触れていた手を頬へと動かし、指の背で滑らかな肌をなぞる。
「僕はその感情の正体に気付いてほしいけど…今、それを求めるのは酷、かな?」
「―――…」
何故、なのだろうか。
ティルが気付いてほしいというその感情の正体を知りたいと思うけれど、怖いとも感じる。
これはきっと、開けてはいけない何かに触れる。
後戻りできない所に、立たされてしまう気がする。
「ティル、私…」
「…うん、わかった。いいよ、今は気付かなくて」
ティルは一瞬、寂しげな表情を浮かべ、コウの身体を引き寄せた。
男性とは違う細い身体を抱きしめ、その髪に頬を寄せる。
「僕は結論を急がないから」
「…ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ?…君が“ここ”にいてくれることが、ほとんど答えみたいなものだしね」
彼女は気付いているのだろうか。
他の人と接するとき、彼女は必ず一定の距離を取る。
それはごく自然なものであり、誰もそれに違和感を覚えたりはしないだろう。
恐らくは、生まれ育った環境により、無条件に他者との垣根を取り払うことができないのだろうと察した。
そんな彼女が、自分の腕の中でゼロの距離にいることに、抵抗を持っていない。
更に、これは無意識なのかもしれないが…胸元に擦り寄るように頬を寄せ、手が小さく着衣を握りしめている。
これを答えと言わずして、どう受け取ればいいのか。
「…(…可愛いんだよなぁ…たぶん、無意識なんだろうけど)」
「…(…落ち着く、のよね…)」
19.01.04