水面にたゆたう波紋
048
視界を覆いつくそうとする土埃を払うように魔法で風を動かす。
陣から少し離れたこの後方部隊では、戦の喧騒は小さい。
開戦してから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
今まさに、両軍の兵士たちが怪我を負い、その命が失われている。
祈るようにギュッと手袋越しに自分の手を握った。
慰めるように頬へと擦り寄るカーバンクルの翡翠色の毛並みを撫でる。
出来るならば、見たくはなかった―――ティルと、彼の旗印が争い合う光景は。
彼、テオ・マクドールはティルの実父だ。
ティルが解放軍を率いることになった時点で、いつかは起こる戦だった。
しかし、それでも―――
「(ティルの心の静寂が、苦しい)」
紋章から伝わる彼の心に、胸が押しつぶされそうだ。
この感情を共有できたであろうグレミオは、彼の隣にはいない。
彼もまた、ティルのために命を落としてしまったから。
コウはちらりと、ティルの横顔を見上げる。
彼は己の役目から逃げぬようにと、一瞬さえも目を逸らさない。
「…頃合いかと。このままでは解放軍の命運が尽きてしまいます」
「そうだね。退却しよう」
戦況を見定めていたマッシュからの進言に頷くと、伝令に退却を伝える。
即座に前衛へと走る伝令を見送り、この戦いが終わることに小さく息を吐いた。
「…さすがに強いな…」
ティルもまた、先ほどよりもほんの少しだけ身体の力を抜いて、そう呟いた。
負け戦に臨むつもりはなかった―――しかし、勝てないだろうと、予想もしていた。
幼い頃から常に見つめてきた目標であり、越えるべき壁はまだまだ高い。
ふと、コウの肩の辺りでふわふわと漂っていたカーバンクルが何かに気付いたように振り向いた。
ピリリとした空気を感じ取り、コウもまたそちらを振り向く。
『王女サマ』
「………ティル、来たわ」
退却する解放軍を追い越すようにして、こちらへと迫りくる一行。
それを先導する人物の姿に、ティルは静かに目を細めた。
「アレン、グレンシール―――」
父の部下である彼らとの思い出が脳裏を過ぎる。
しかし、すぐにそんなことを考えている場合ではないと、その思考を追いやった。
今考えるべきことは、いかにしてこの戦場から退却するか、だ。
彼らにも情けはあるだろうが、帝国の将として、解放軍のリーダーを見逃すことはできないだろう。
ティルの考えに気付いたコウは、ちらり、とマッシュに視線を向ける。
コウならば、たった一人でも彼らを止められる。
彼女にはこの世界にはない魔法や召喚獣の力がある。
この場において最も優先すべきは「ティルを退却させること」であり、それが最適解だと思えた。
「駄目だよ。コウはウィンディに狙われてる。囚われたときのリスクが大きい」
コウの考えを読み取ったわけではないだろうが、その表情から察したらしいティルがそう釘をさす。
迎え撃つ以外に方法はないか―――そう覚悟を決めようとした、そのとき。
「ティル様。ここは俺が食い止めます。早く逃げてください」
足を止めて振り向いたパーンに気付いて声をかけるよりも先に、彼がそう声を上げた。
「パーン!お前一人では無理だ。死ぬつもりか!」
思わず足を止めたクレオの言葉に首を振る。
「死ぬつもりはない。しかし、死ぬ覚悟をしなければテオ様は止められないだろうな」
足を止めて振り向くティルを見て、パーンは首を振った。
許可できない―――その言葉は、彼の決意を秘めた眼差しによって喉の奥に飲み込まれる。
「ティル様。止めないでください。あなたは、ここで死ぬわけにはいかない。グレミオにもらった命、無駄には出来ないでしょう」
「―――っ頼む」
ティルにとっても苦渋の決断だったのだろう。
奥歯を噛み締め、眉間の皺を深めながら、ティルは前を向いた。
パーンはその姿にそっと目を細め、やがて小さく口角を持ち上げる。
幼い頃から見守ってきた彼は、随分と強く成長した。
どこか兄のような感慨深い気持ちを抱きながら、例えこの場で命を落としたとしても後悔はないな、と思う。
彼の未来に己の命を懸けたグレミオの気持ちが理解できた。
その背中を見送ったパーンが後ろを振り向く。
「―――」
その一部始終を見守ったコウは、何も言えずに唇を噛んだ。
戦いに出るたびに思う。
自分は、どれほどに優しい世界の中で生かされていたのだろうか、と。
歴史書の中で見聞きした戦の数々を、真に理解していなかった。
わかっているつもりだった―――しかしそれは、識っているだけだった。
「…ごめん」
喧騒の中でもはっきりと聞こえた、ティルの声。
ハッと顔を上げると、彼は悲しげに眉尻を下げた。
「本当は、優しい世界に戻してあげたいけど…」
「…大丈夫。傍にいるわ」
彼の言葉を遮るようにして発したそれは本心だった。
苦しいし、悲しいし、つらい。
それでも、自分以上に重責を負う彼を独りにはできない。
どれほどに彼の周囲に人がいたとしても、彼の心を守ることができる人は少ない。
コウがその数少ない一人であると言うことは自負であり、事実であった。
身体の中の魔力の流れを意識する。
それを一か所に集め、空に向けた手を介して広く放つ。
「―――ケアルガ、ヘイスト」
退却する兵団を包み込むように二つの魔法を放った。
魔力の粒が降り注ぎ、兵たちの顔に活気が戻る。
ぐん、と速度の上がった兵団を見て、これならば無事に退却が完了するだろうと、安堵する。
そうして、様々な思惑を抱えた一戦が幕を下ろした。
19.11.12