水面にたゆたう波紋
046
最低限の明かりを残した食堂に、その背中を見つけたときは、今しかないと思った。
彼の背後から近付いていくと、その正面に座っていたビクトールが先に、コウの姿に気付いた。
彼は何も言わずに頷き、最後とばかりにグラスの酒を呷る。
「―――じゃあ、俺はこのあたりにしておくか」
「ん…?あぁ、それなら俺も―――」
「いや、お前に客だ」
くいっと顎で後方を促され、振り向いた彼、フリックがコウの姿を捉えた。
少しの沈黙の間に、席を立ったビクトールが新しいグラスと酒を持って戻ってくる。
ゴトンと鈍い音がして、度数の低い果実酒が空いた席に置かれた。
「じゃあな」
「ええ、ありがとう。おやすみなさい」
彼はそれ以上何も言わず、コウの肩を叩いて食堂を後にした。
ビクトールの座っていた席に腰を下ろしたコウは、果実酒に手を伸ばす。
しかし、引き抜こうとしたコルクは想像以上に硬くて、なかなか開いてくれない。
クスリ―――小さく笑った声が聞こえたかと思えば、ボトルが大きな手に奪われた。
ポン、と軽やかな音と共に開けられたボトルから、鮮やかな緋色の液体がグラスへと注がれる。
「相変わらず、苦手なんだな」
「…ええ、慣れないの。お酒を飲む機会だって、そう多くはないし」
その多くはない機会も、彼によって助けられていたから。
この場に居ないティルを思い、こくり、と小さな一口で喉を潤す。
「―――このお酒を教えてくれたのは、オデッサだった」
「ああ、そうだな…コウでも飲める酒はないかって、皆に聞いて回ってた」
「これだけじゃない。オデッサは、子供みたいな私に、色々なことを教えてくれた」
あれは何だ、これは何だ。
目にするものすべてが新しく、コウの興味を引いたものは数多い。
コウがそれら全てに対して子供のように色々と尋ねたりはしなかった。
けれど、素直に尋ねられないコウの心中を察したオデッサは、聞かずとも「あれはね」と説明してくれた。
もちろん、そうしてくれたのは彼女だけではなく、目の前にいるフリックも同じだったけれど。
「―――ごめんなさい。オデッサを、守れなくて」
ごめんなさいと、何度口にしただろうか。
あの日、激高したフリックを前にしたその言葉に、今ほどの重みはなかっただろう。
あの時は、どうして、と責められることに対しての謝罪だった。
今は違う―――冷静すぎる思考のまま、心からの言葉が唇から滑り落ちた。
「…オデッサの最期は、どんな様子だった?」
あの日の様子が嘘のように、フリックもまた、冷静だった。
コウはそっと瞼を伏せ、あの日を思い出す。
「レナンカンプが帝国軍に攻め込まれて、私たちは急いでアジトに向かったの。宿屋の主人も、酷い傷だった。
私とティルは、彼を治療するために残って、オデッサは先を急いだわ」
あの時の選択が間違っていたのだろうかと悩んだこともあった。
けれど、助けられる命から目を背けて走ったとして、果たしてオデッサを救うことができたのか。
未来がどうなっていたかなど、誰にも分らないことなのだと、そう自分を納得させた。
「時間にしたら、ほんの数分だったと思う。オデッサたちに遅れて、アジトへの入口に来たら…声が…」
あの叫び声を思い出すと、今でも身体が震える。
コウは膝の上の手をギュッと握りこみ、唇を結んだ。
「オデッサの傷は、一目見て…わかったわ。子供を庇ったと、聞いた」
泣かずに、きちんと伝えなければ、と思っていた。
「妹が、できたみたいで…嬉しかったって。泣いてばかりでは、駄目って…っ。
笑ってって言われたけど、私、できなくて………オデッサは、笑ってた…っ。私の笑顔を、覚えていてって…!」
けれど、あの日のことを思い出すと身体が震えるし、涙が溢れてくる。
抑え込めなかった涙が頬を伝うけれど、伝えなければという気持ちだけで、ままならない唇を動かした。
「コウ、わかった。もういい」
頬を撫でた体温に、ぎゅっと閉じていた眼を開く。
いつもは手袋に包まれているフリックの体温は、肌には馴染まないけれど、優しい。
引き寄せられるままに防具を外した彼の胸へと顔を寄せる。
「…つらかったな。ごめん、わかってやれなくて。お前が、オデッサを助けようとしないはず、なかったよな」
「ごめん、フリック…!ごめんなさい、大事な人を、守れ、なくて…!」
「お前が謝らなくていい。守れなかったのは…俺も、同じだ」
―――お前も…こいつに乗り換えたってのか?オデッサを慕ってたのは嘘だったのかよ!!
―――何でだよ…何で、助けなかったんだ!?お前の魔法なら助けられたんじゃないのか!?
コウを責めたあの日の言葉は、恐らくは本心だったのだろう。
けれど、コウとオデッサを思い出せば思い出すほど、そんなはずがないと後悔した。
コウが、オデッサの死を拒まなかったはずがなかったのだ。
それと同時に、コウがどれほどオデッサの死に絶望したのか―――傍にいてあげられなかったことを、悔やんだ。
「そうか―――オデッサの最期は、笑っていたんだな…」
それは、せめてもの救いだったのかもしれない。
熱くなる目元、こみ上げる心。
彼の声が震えていることに気付き、コウはギュッとその身体を抱きしめた。
カラン、と食堂で借りた氷が音を立てた。
絞ったタオルは冷たく、熱を持った肌には心地よい。
二人して目元を白いタオルで覆いながら、どちらともなく笑った。
「悪かったな。ティルのことで頭がいっぱいだったのに」
「…ううん、大丈夫。ちゃんと、話をしないと思ってたから」
「………ティルはどうだった?」
そう問いかけられ、コウはタオルを外し、考えた。
「…彼は…強い目をしていたわ。たぶん、自分で消化しようとしているんだと思う」
母に縋る子供のように、力強く引き寄せられた腕の力を覚えている。
そうして、ゆっくりと腕をほどいた彼の目は、絶望や憎悪に染まってはいなかった。
「…そうか…あいつは、強いな。オデッサがティルを選んだ理由がわかるような気がする」
「…ええ、そうね」
「だが、あいつもまだ子供だ。支えてやってくれ」
フリックにそう言われ、コウは小さく頷いた。
彼はこの戦いで多くの人を失っている。
奪われた親友、失った腹心、敵対してしまった父親。
それでも前を向いて進まなければならない、彼の立場を思うと心が押しつぶされそうになる。
それが彼の運命だと、そんな言葉で片付けてしまってはいけないと思った。
「支えたいと…思うわ。一人で苦しんでほしくない。背負えるなら、背負わせてほしい」
「ああ、その気持ちは、頼もしいと思う。しかし…俺としては複雑だな」
「?どうして?」
「妹を嫁に出す気分だ」
なんて冗談のように笑いながら告げる彼に、コウもまたクスリと笑う。
「もう…どうしてそうなるの?私たちはそういう関係じゃないわよ?」
「…え?お前ら、違うのか?」
「??ええ、彼は、解放軍のリーダーで、私は解放軍の一員に過ぎないわ」
それ以上でも以下でもない、という彼女に、ぽかんとした表情のフリック。
その表情を向けられた彼女は、きょとんと瞬きをした。
「いや、でも…好きなんだろう?」
「…好き…?―――誰が…?」
「お前が、ティルを。…だって…ティルは―――いや、悪い。これは俺が言うことじゃないな」
ハッとしたように首を振った彼は、忘れてくれ、と言いながら最後の一口を呷る。
「さぁ、これ以上は明日に差し支えるからな。そろそろお開きにしよう。
これは片付けておくから、お前は休むと良い」
「え、えぇ…私も手伝うわ」
「いや、いいから。休んでくれ」
ほら、と背中を押され、渋々と食堂を後にする。
頼りないその背中を見送り、フリックは深々と溜め息を吐き出した。
「…どういうことだよ、ビクトール」
「聞いたままだな。ティルの方は自覚しているみたいだが…コウの方は、な」
そうして肩を竦めながら柱の陰から姿を見せたビクトール。
フリックは再び溜め息を吐き出した。
「あれで、自分の感情にもティルの感情にも気付かないんだからな。流石に深窓の姫は手強いぜ」
「…こんな戦いの中だ。いつ失うかなんてわからない―――コウには、幸せになってもらいたい」
「だからって周りがどうにかするもんでもないだろ。見守るしかねぇさ。
ま、お兄ちゃんとしては思う所は山のようにあるだろうけどな!」
17.03.04