水面にたゆたう波紋
045
ゴトリ、と重い音と共にテーブルの上に置かれたそれ。
合流した中に“彼”の姿がなかったことで、覚悟していたはずだった。
けれど、いざ目の前にその事実を突きつけられると、まるで呼吸を忘れたように静止してしまう。
「…グレミオが、死んだ。俺たちを…ティルを助けるために、人食い胞子の中に一人残って…」
ビクトールの言葉がコウの心を深く抉る。
辛うじて止まっていた涙が、再び溢れ出してしまいそうだ。
「ティルは?」
「………哀しんでいる。自分を責めているわ」
トラン城に戻ったティルは、ビクトールたちの配慮によって自室に入った。
コウ以外にその胸中を知ることのできる者はおらず、彼女にそれを求めることは当然の流れだった。
「けれど、落ち着いてきているようです。………様子を、見てきます」
マッシュに向けてそういうと、彼は無言で一つ頷いた。
それを見届け、コウは大広間を出るように踵を返す。
その背後で動き出す気配を感じながら、扉を潜った。
「―――コウ」
廊下を進んで少しの所で背中にかかる声。
コウが振り向いた先にはフリックがいた。
あの日以来、まともに顔を合わせたのは今回が初めてのことだ。
しかし、不思議と緊張はない。
グレミオの一件があり、こんな小さなことに心を囚われていてはいけないと思った。
ティルを、孤高のリーダーである彼を支えると決めたのだから。
「私は、後悔しているの。あなたとの関係を修復せず、今回の旅に同行しなかったことを。
私がその場にいたのなら―――あるいは、何か方法があったかもしれないと」
「…コウ、すまない」
「謝らないで。あなただけが悪いわけじゃない―――胸騒ぎがしていたのに、ちゃんとしなかった…私の責任」
監獄の前でティルの激情を受け止めながら、後悔だけは山のように押し寄せてきた。
けれど、どれだけ後悔したとしても、時間を戻すことはできない。
失われた命を取り戻すことなどできはしないのだと―――コウもティルも、わかっていた。
監獄から出てきたティルは、何も言わずに数秒間、縋るような強さでコウを抱きしめた。
それ以上に何も言わず、彼はこの城へと戻ってきたのだ。
既に人としての形を失ったグレミオを、魔法でどうにかできるはずはない。
けれど、ただ一言さえも口にしなかった彼は、あの時の言葉を守ろうとしてくれているのだろう。
―――コウの魔法は希望じゃない。
希望にしては、いけないのだと。
「フリック、私はあなたと話がしたいわ」
「…ああ」
「でも、今はティルの元に行きたいの」
こうして対峙している間も彼女の意識がティルへと向けられていることは、落ち着かない様子からも明白だ。
控えめで、思っていても相手のことを考えて口を噤み、本心を笑顔の裏に隠してしまうような女性だった。
そんなコウは、フリックの知らない間に一人の女性として、支えるべきものを見つけてしまったようだ。
それが寂しくもあるけれど、同時にとても安心した。
―――コウはすべてに遠慮して、配慮して…見ているこちらが疲れてしまいそう。
彼女が安らげる場所が必要だと、オデッサはいつもそう言っていたことを思い出す。
フリックがこの城に入って半月以上。
幾度となく彼女と話そうとしたけれど、その全てを阻んだのは他でもないティルだった。
―――彼女の準備ができていない。
そういって彼はフリックを止めた。
無論、強引に押しのけられなかったのは、コウが体調を崩した前例があるからだ。
そろそろ、とフリックを知る古いメンバーに何度も説得されようと、彼は迷いなくコウをその背に隠した。
その真っ直ぐな決意はいっそ清々しささえ感じさせるものであり、男として素直に尊敬に値すると思う。
「―――ティルを支えてやってくれ」
その言葉がコウの背中を押した。
頭の整理が必要だろうと、自室に促されるままに部屋にこもって暫く。
恐らく、もう動き出すことはできるだろう―――けれど、ティルは変わらずそこにいた。
まるでじっと、何かを待っているかのように黙したまま、目を閉ざしている。
「ティル殿、ご無事でしたか…」
戻りが遅いと軍勢を率いてきたというマッシュの説明が、遠いところで聞こえる。
「帝国兵の姿が見えませんが、一体何が―――」
一体何が―――そんなことは、こっちが聞きたい。
―――何が、起ったんだろう。
「…たぶん、人食い胞子にやられたんだろう」
ちらりとこちらに向けられるビクトールの視線を感じる。
―――そうだ、ミルイヒが人食い胞子を放って、逃げ場を失って…そして。
そうして順序立てて頭の中を整理していく。
その時、漸く気付いた。
―――彼女が、いる。
「…マッシュ」
「はい?」
「コウも、来ているの?」
マッシュからの確信を得ようと紡いだ声は、驚くほどに掠れていた。
ティルの言葉に、ビクトールが眉を顰める。
「ティル―――」
マッシュの向かいへと歩き出そうとするティルの前に立つビクトール。
無理だ、と彼の目が告げている。
ティルは何も言わずに彼の身体を押しのけた。
「コウをこの監獄の中に入れないでくれ―――絶対に」
マッシュはその言葉を聞き、直ちに背後にいた兵に指示を出す。
踵を返して走り出す兵の背中を見送り、ティルは深く息を吐き出した。
「大丈夫だ、ビクトール。彼女に頼むわけがない」
そう、冷静を装いながらも頭の中はぐちゃぐちゃだ。
それでも、一番大切なことは覚えている。
グレミオの死のことを考えると、頭の芯が冷たくて、脳の半分が機能していないような感覚に陥る。
開かない扉の向こうで、覇気を失っていくグレミオの声。
コウの魔法のことが全く脳裏を過らなかったと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に彼女がこの場に居ないことに安堵した自分は、どれほど冷酷な人間なのだろう。
もし、彼女が人食い胞子に―――そう考えただけで、全身の血が凍る。
マッシュがそこにいる以上、安全は確認されているけれど、それでも彼女はそこに来てはいけない。
最も優先すべきことは彼女をこの監獄から引き離すことだと。
混濁した頭でもそう分析できてしまえるほどに、残酷な自分。
「(………グレミオ、ごめん―――)」
主を失った服を握りしめ、そう懺悔した。
―――コンコンコン。
ノックが聞こえ、瞼を開く。
出ていく前と何一つ変わらない室内を一瞥し、最後に扉を見た。
誰が来たのかはわかっている。
「…入っていいよ」
ゆっくりと扉を開き、部屋の中に入ってきた彼女は何も言わなかった。
そのままベッドに腰掛けるティルの元まで歩み寄り、彼の前に立って静かに手を伸ばす。
バンダナを外した彼の髪に触れ、優しくその頭を腕の中へと引き寄せた。
頬に感じる彼女のぬくもりが、まるで母の腕に抱かれているようだと感じる。
一つの言葉もなくぬくもりを共有し、静かな時間が過ぎて行った。
16.11.01