水面にたゆたう波紋
044
「魔力が荒れてる」
「!!」
背後からの声にビクリと肩を震わせる。
振り向いた先には呆れた表情を浮かべ、城壁に背を預けるルックの姿があった。
その眼差しから逃れるように、コウはふい、と視線を逸らす。
「城に放っておかれるのがそんなに不満?不満を言いたいのはこっちだよ。
まったく…放置していくなら、レックナート様の所へ連れて行けばいいのに」
お蔭で君のお守りを任されている。
この城にはそれなりの人数が集まっているけれど、コウに向かってこんなことを言うのは彼くらいだろう。
彼の場合は誰にでも毒を吐くけれど。
「はっきりしない君が悪い」
「…わかっているわ」
フリックが解放軍に合流してから、半月が経とうとしている。
それなのに彼との和解が進んでいないのはコウが弱いせいだ。
それは、他でもない彼女自身が誰よりも理解している。
しかし、無理をして大丈夫だと言っても、ティルが見抜いてしまうのだ。
じっと顔を見つめ、駄目、と一言。
大丈夫、が本心ではないことをコウ自身も理解してしまっているから、彼に対抗する言葉が出てこない。
「まぁ、監獄ほど君に不似合いな場所はないだろうから、無理に連れて歩く理由もないけどね」
「…ルックって本当に…」
「何か言ったかい?」
「………何でもないわ」
緩く首を振り、空を仰ぐ。
彼らと行動を共にしなくなり、マッシュはコウに情報を告げることをやめた。
彼女とフリックの関係が拗れ、結果として彼女が機能しなくなることを懸念したのだろう。
そうなるくらいならば、大きな戦のために小さな戦から彼女を引き離し、休養を与える。
マッシュならばそうするだろうと、コウも理解していた。
それでも―――
「胸騒ぎがする」
紋章を握りしめ、コウは小さく呟いた。
彼女の脳裏には数日前の夜の光景がよみがえっていた。
「夜風はお体に障りますよ」
そう声をかけてきたのはティルではなかった。
ああ、そう言えば彼は明日の事でマッシュに呼び出されていたな、と思い出す。
「グレミオさん」
「あなたは恐らくここだろうからと、坊ちゃんに頼まれまして」
「あら…すみません」
申し訳なく頭を下げると、彼はとんでもない、と首を振る。
「あなたを頼まれることは嬉しいですよ。あなたは、坊ちゃんにとって無二の人ですから」
その人を任されるということは、これ以上ない信頼の証だ。
グレミオは誇らしげにそう告げた。
その言葉が照れくさくもあり、やはり申し訳なくもある。
「…すみません。私の心が弱いばかりに…ティルに心配ばかりをかけてしまっています」
「謝らないでください。坊ちゃんはあなたを支えることで安心しているんです」
「…安心?」
「あなたの寄る辺で在ることを。この苦しい戦いの中で、あなたの存在が坊ちゃんを支えています」
グレミオはいつも一歩身を引いてついてきていた。
そんな彼が、コウの隣に並び立つ。
彼を真横に見る光景は、違和感と言うよりは、不思議な感覚だった。
「坊ちゃんは強くなった。この戦いが、環境がそうさせるのでしょうけれど…一番の理由はコウさんです。
あなたがいたから…坊ちゃんは強くなった。テオ様の息子としてではなく、一人の男性として」
「もし、そうだとしても…彼を支えているのは、私だけではありません。
彼が大切にし、そして彼を支える多くの人の中には、あなたも含まれていますよ、グレミオさん」
「………そう、だとしたら…嬉しいですね」
そういったグレミオの表情が、あまりにも儚くて。
彼をここにつなぎ留めなければいけないのに、言葉では決定的な“何か”が足りなかった。
今回の旅、彼はやはり同行すべきではなかったのかもしれない。
頑なに同行を求めた彼に、不安ばかりが増していた。
姿の見えない彼らを探すように、遠いところに視線を向ける彼女に、背後から声がかかる。
「マッシュさん」
「ティル様がここを経って2日目―――どう思いますか?」
ここしばらくは情報すら与えられていなかった。
突然の問いかけに、コウは言葉を詰まらせる。
「向かうべきだと思います」
少しの間をおいてはっきりと答えた彼女に、マッシュは強く頷いた。
「来てくれますね?」
「もちろんです」
マッシュは聡い人間だった。
こんなところで燻っている場合ではない。
そうしてコウが踏み出せるタイミングはここだと、彼はよくわかっていたのだろう。
「編成は既に終わっています。行きましょう」
歩き出すマッシュの背を追いながら、自らの不安をかき消すように手を握りしめる。
願わくは、この胸騒ぎが杞憂であるようにと。
ソニエール監獄に囚われたリュウカンを救い出すこと。
それが今回のティルたちの任務であり、用意された命令書を使えば難易度は決して高くはなかった。
恐らくは1日で帰ってくるだろうと予想した彼らが戻らず、一晩。
やってきたソニエール監獄は、監獄の名に相応しい重厚な佇まいでコウたちを迎えた。
「…おかしいですね、門番が不在とは…」
そこに来てやっと、コウは身体の芯から凍えるようなこの感覚の意味を悟った。
マッシュの声がどこか遠い所から聞こえる。
コウは震えそうになる手をぎゅっと握りしめ、この感覚に流されないようにと歯を食いしばった。
「早く…」
「…コウ…?…どうしました!?」
「早く、ティルの元へ…っ!お願いだから、急いで…!!」
掠れるような小さな呟きに気付いたマッシュが驚いたように彼女の肩に触れる。
自らの身体を抱きしめるようにして、身を切るように叫ぶ彼女の目からは、とめどなく涙が溢れていた。
只ならぬ様子に何かを悟り、マッシュは兵たちを引き連れて監獄内部へと走り出した。
「ティル…ッ」
この感情は自分のものではない―――これは、ティルの心だ。
哀しみ、悲しみ、苦しみ、怒り、そして―――。
負の感情が怒涛のようにコウの中へと流れ込んでくる。
激流のようでありながら、身が凍るほど冷たい。
何を言えばいいのかわからないけれど、何かを思い切り叫んでしまいたいような激情。
「ごめんなさい…!ごめんなさい、ティル…!!」
離れてはいけなかった。
今回だけは、何があっても離れてはいけなかったのだ。
コウはその場に膝を付き、立ち上がることさえままならない。
彼女を案じる仲間の声すら、彼女には届いていなかった。
16.08.20