水面にたゆたう波紋
043
いつまでもこのままではいられない。
わかっているのに、行動に移すことができない自分が嫌になる。
「うん、これなら動いてもいいかな」
そっと触れた手の平が離れていく。
その向こうに見えたティルは、心底安心した、と言う風に笑った。
「………ティル…」
絞り出したその先が、紡げない。
夢の中の出来事だったとは思わない。
コウは、熱に浮かされた状態であっても、確かに覚えていた。
縋るようなフリックの手を、振り払ってしまったことを。
混乱に身を任せ、その全てで彼を拒んでしまったことを。
「―――コウ、僕はね」
静かに、そっと語り掛けるティル。
「君さえ望むなら、逃げてもいいと思うんだ」
「…ティル…?」
「絶望が怖いのなんて、誰だって同じだ。嫌われるのが好きな人なんて、いないんだよ」
何の解決にもならないと知っているはずなのに、彼の言葉はどこまでも優しい。
「今日が無理なら、明日でもいい。向き合いたいと思えるその時まで、僕が守るから。
だから―――頑張らなくていいよ」
今以上に二人の関係がこじれるはずがない。
謝りたいと思うフリックの心は切実だ。
あとは、コウがその言葉に聞く耳を持てばいいだけの話。
そんな状況を正しく理解しながら、ティルはコウに逃げ道を残した。
彼女自身が聞きたいと思えるその時まで、本気で彼女をフリックから遠ざけようとしている。
彼が関係修復に向けて動こうとしない理由は、ただ一つだ。
「…うん、少し…考えるわ。ありがとう、ティル」
「気にしないで。マッシュが話をしたがっていたから…」
「準備するわ」
小さく微笑んだ彼女に外で待つことを伝え、部屋を出る。
扉を閉めたところで、ふぅと息を吐き出した。
「おう、ティル!丁度よかった」
「駄目」
「…まだ何も言ってないんだがな」
向こうから歩いてきたビクトールは、歯牙にもかけないティルの言葉に思わず苦笑を返した。
何も言いだしていないのに、言おうとしていたことを正しく理解している。
「会わせるつもりはないよ。少なくとも、彼女が会いたいと言うまでは」
「そうは言ってもなぁ…あいつの様子、見ただろ?シスコンなんだよ、あいつは」
「知らないよ、そんなことは。フリックの言葉がコウを傷つけた。その事実は消えない」
「あの時はお互いに冷静じゃなかったんだ。もう、あんなこと絶対に言わねぇって」
な、頼むよ。あんな調子のフリックは見てられねぇんだ。
長い付き合いであるフリックの様子に、ビクトールは頼む、と手を合わせる。
溜め息を吐き出したティルは、静かに彼を見据えた。
「あの時だったから、問題なんだよ。あれは間違いなくフリックの本心だ。なかったことにはならない」
先ほどまでの、やれやれ、と言った様子が消え、ティルの本気の心が垣間見える。
「正しく理解すべきだ。コウの魔法は、紋章のように制限がない。周りが止めなければ、コウは身を削る」
僅かながら含まれた殺気に似た眼光に、ビクトールが笑顔を消した。
「コウの魔法は希望じゃない」
ぐっと眉を寄せるティル。
ビクトールはその表情を見て理解した。
「…すまなかった」
ティルがそこまで考えているとは知らなかった。
ビクトール自身もまた、コウの魔法に頼っている。
いや、彼だけではない―――解放軍のすべての者が、彼女の魔法を希望だと思っているだろう。
彼女の魔法は魔力を消費するというが、その魔力は決して目には見えない。
完全に使えなくなる紋章とはそもそもの作りが違うのだ。
コウはいつだって、怪我をした仲間を癒してきた。
いつも、どんな時も、どれほど魔法を使おうと、彼女は笑顔で、あるいは必死な表情で、魔法を使った。
だから、忘れてしまっていた、気付かなかった。
その安心感が、彼女の命を脅かしているのだと言うことに。
「いや、僕も同じだ。マッシュがコウの魔法を頼りにしてるのを知って、何も言わなかった」
解放軍すべてがその傾向にあると理解しながら、ティル自身もコウを頼りにしていた。
―――でも、全てを使えば助けられたかもしれない…!
悲痛な叫びが、今も耳に残って離れない。
その声で、漸く気付いたのだ。
今の状況の危険性に。
「過ぎた力を使えば、コウが死ぬ。そんなこと…絶対に、させない」
皮手袋をぎゅっと握りしめる。
その決意に、紋章が応えたような気がした。
ドアにもたれるようにして、ふぅと息を吐き出す。
ティルとビクトールの声が聞こえて、出るに出られなくなってしまった。
聞き耳を立てるのはよくないけれど、この場合は仕方がなかったと言えるだろう。
何より―――おそらく、いや、ティルは気付いている。
コウが二人の会話を聞いていると言うことに。
戸惑いの感情は紋章を通じて彼へと伝わってしまっているだろうから。
これは、ティルからの警告だ。
「…うん、わかっているわ」
―――コウの魔法は希望じゃない。
コウ自身もまた、それをちゃんと理解しなければいけないのだ。
この世界にはエーテルは存在しない。
失った魔力を補充するには、身体を休めるしか方法はないのだ。
コウはそっと自身の紋章を握りしめた。
紋章越しに伝わる―――彼の決意。
その気持ちに、決意に、応じたいと思った。
「…駄目。絶対に…」
誰かを、彼を失いたくないと思う。
それは決して、紋章に左右された感情ではない。
そうして、彼を思う気持ちと、彼が自分を思ってくれる気持ちは、限りなく似ている。
だからこそ、その気持ちに応えなければと思った。
「お待たせ」
「ううん、待ってないよ。行こうか?」
「ええ。………ティル、私も、頑張るわ。大切なパートナーを悲しませられないもの」
にこりと微笑み、彼の一歩先を歩き出す。
そんな彼女の背中に、ティルは小さく肩を竦めた。
「…“パートナー”、ね」
お互いを思う気持ちは似ている。
けれど、ほんの少し…違う色を秘めているのだと、彼女は知らないだろう。
15.01.11